(41番) 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
人知れずこそ 思ひそめしか
壬生忠見(ミブノタダミ)
<訳> 恋をしているという私の浮名が、早くも世間に広まってしまった。誰にも知られないように、ひそかに心のうちだけで思い始めたばかりなのに。(板野博行)
恋心を抱き始めたばかりで、まだ内緒に……と思っている矢先に、浮名が立ってしまった。隠しおおすことの何と難しことか と。胸の内は、知らず知らずに何らかの形で表出されるもののようです。
前回に触れたように、「天徳内裏歌合」(960年)の折、最後の20番目の組合わせで平兼盛の歌「忍ぶれど」と争い、負けてしまった歌です。作者・壬生忠見は、負けた悔しさに食も喉を通らず、寝込んで遂には悶死……とも伝えられているようですが。
歌の趣旨は、「忍ぶれど」とほとんど同じです。題を少し変えて、同じく五言絶句にしてみました。下記ご参照ください。
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<漢字原文および読み下し文> [下平声一先韻]
・初恋的困惑 初恋の困惑
人謂迷情網, 人は謂(イ)う 情網(ジョウモウ)に迷うかと,
已聞艷風伝。 早くも艷な風伝(フウデン)を聞く。
剛覚初恋意, 初恋の意(オモイ)を覚(オボエ)た剛(バカリ)で,
不管厭公然。 公然たるを厭(イト)うにも管(カカワ)らず。
註]
情網:恋の闇路。 已:もはや、早くも
風伝:うわさ。 剛:…したばかりである。
不管:…にかかわらず。 厭:嫌う。
<現代語訳>
初恋の戸惑い
恋の闇路に迷い込んでいるのかと人が言っており、
早くも浮名の噂が聞こえてきた。
初恋の思いを抱きだしたばかりで、
公然となることを厭うているのにも関わらず。
<簡体字およびピンイン>
初恋的困惑 Chūliàn de kùnhuò
人谓迷情网, Rén wèi mí qíngwǎng,
已闻艳风传。 yǐ wén yàn fēngchuán.
刚觉初恋意, Gāng jué chūliàn yì,
不管厌公然。 bùguǎn yàn gōngrán.
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作者・壬生忠見について触れます。平安中期の歌人であるが、その生没年は不詳である。天徳二 (958) 年に摂津大目(ダイサカン)に叙任されたことが知られているほか、正六位上・伊予掾に叙任されたようですが、経歴の詳細は不明である。
幼少の頃から歌の才能はよく知られていたようで、次のような逸話が語られている と。内裏からお召があったが、家が貧乏であったらしく、「乗り物がなく参内できない」と答えた。すると、「竹馬に乗ってでも参内せよ」と仰せられた。そこで:
「竹馬は ふしかげにして いと弱し 今夕陰に 乗りて参らむ」
[概意]=竹には節があり、竹馬はふし鹿毛という毛色で弱いので、今日の夕日かげに乗って参上いたします)と歌を詠んで奉った と。
歌人としては、父・忠岑ともに三十六歌仙の一人に数えられていて、屏風歌で活躍した と。また「天徳内裏歌合」をはじめ、他の歌合せにも出詠している。勅撰歌人としては、『後撰和歌集(1首)以下の勅撰和歌集に36首入っており、家集『忠見集』もある と。
さて、「天徳内裏歌合」における「忍ぶれど」との決着は、前回の稿で、“天皇のササヤキで決まった”としたが、真相は少々異なるようである。同歌合せについては、詳細な記録が残っている とのことで、記録によると:
「一旦は、持(ジ=引き分け)としたが、天皇は納得しなかった」。「わたし(藤原実頼)が天皇の様子を窺ってみたところ、優劣の判断は下されなかったが、右方の歌をひそかに口ずさんでいた。そこで兼盛を勝ちと定めた」とのことである。
敗れた忠見は、落胆のあまり、食も進まず、病に臥して悶死した、と語られることがありますが、これは作り話のようです。家集には、年老いた自らの境遇を詠んだ歌もあるとのことである。
「天徳内裏歌合」に関連して、主催者の村上天皇は、本音かあるいは謙遜(?)しているのか、同様の趣旨の歌を2首残しているようです。その一首は:
「ことのはを くらぶの山の おぼつかな 深き心の何れ優れる」
[概意]=言の葉(和歌)を比べようと思うが、暗部山(=鞍馬山)の道が暗いように(わたしは和歌の道に暗くて)よくわからない。歌の心の奥深さはどれが優れているのか(見極められようか)。
[参考資料]
百人一首に関わる記載は、主に以下の資料を参考にしています。
・(ネット)「ちょっと差がつく『百人一首講座』、筆者不詳 小倉山荘
・板野博行:既報。
人知れずこそ 思ひそめしか
壬生忠見(ミブノタダミ)
<訳> 恋をしているという私の浮名が、早くも世間に広まってしまった。誰にも知られないように、ひそかに心のうちだけで思い始めたばかりなのに。(板野博行)
恋心を抱き始めたばかりで、まだ内緒に……と思っている矢先に、浮名が立ってしまった。隠しおおすことの何と難しことか と。胸の内は、知らず知らずに何らかの形で表出されるもののようです。
前回に触れたように、「天徳内裏歌合」(960年)の折、最後の20番目の組合わせで平兼盛の歌「忍ぶれど」と争い、負けてしまった歌です。作者・壬生忠見は、負けた悔しさに食も喉を通らず、寝込んで遂には悶死……とも伝えられているようですが。
歌の趣旨は、「忍ぶれど」とほとんど同じです。題を少し変えて、同じく五言絶句にしてみました。下記ご参照ください。
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<漢字原文および読み下し文> [下平声一先韻]
・初恋的困惑 初恋の困惑
人謂迷情網, 人は謂(イ)う 情網(ジョウモウ)に迷うかと,
已聞艷風伝。 早くも艷な風伝(フウデン)を聞く。
剛覚初恋意, 初恋の意(オモイ)を覚(オボエ)た剛(バカリ)で,
不管厭公然。 公然たるを厭(イト)うにも管(カカワ)らず。
註]
情網:恋の闇路。 已:もはや、早くも
風伝:うわさ。 剛:…したばかりである。
不管:…にかかわらず。 厭:嫌う。
<現代語訳>
初恋の戸惑い
恋の闇路に迷い込んでいるのかと人が言っており、
早くも浮名の噂が聞こえてきた。
初恋の思いを抱きだしたばかりで、
公然となることを厭うているのにも関わらず。
<簡体字およびピンイン>
初恋的困惑 Chūliàn de kùnhuò
人谓迷情网, Rén wèi mí qíngwǎng,
已闻艳风传。 yǐ wén yàn fēngchuán.
刚觉初恋意, Gāng jué chūliàn yì,
不管厌公然。 bùguǎn yàn gōngrán.
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作者・壬生忠見について触れます。平安中期の歌人であるが、その生没年は不詳である。天徳二 (958) 年に摂津大目(ダイサカン)に叙任されたことが知られているほか、正六位上・伊予掾に叙任されたようですが、経歴の詳細は不明である。
幼少の頃から歌の才能はよく知られていたようで、次のような逸話が語られている と。内裏からお召があったが、家が貧乏であったらしく、「乗り物がなく参内できない」と答えた。すると、「竹馬に乗ってでも参内せよ」と仰せられた。そこで:
「竹馬は ふしかげにして いと弱し 今夕陰に 乗りて参らむ」
[概意]=竹には節があり、竹馬はふし鹿毛という毛色で弱いので、今日の夕日かげに乗って参上いたします)と歌を詠んで奉った と。
歌人としては、父・忠岑ともに三十六歌仙の一人に数えられていて、屏風歌で活躍した と。また「天徳内裏歌合」をはじめ、他の歌合せにも出詠している。勅撰歌人としては、『後撰和歌集(1首)以下の勅撰和歌集に36首入っており、家集『忠見集』もある と。
さて、「天徳内裏歌合」における「忍ぶれど」との決着は、前回の稿で、“天皇のササヤキで決まった”としたが、真相は少々異なるようである。同歌合せについては、詳細な記録が残っている とのことで、記録によると:
「一旦は、持(ジ=引き分け)としたが、天皇は納得しなかった」。「わたし(藤原実頼)が天皇の様子を窺ってみたところ、優劣の判断は下されなかったが、右方の歌をひそかに口ずさんでいた。そこで兼盛を勝ちと定めた」とのことである。
敗れた忠見は、落胆のあまり、食も進まず、病に臥して悶死した、と語られることがありますが、これは作り話のようです。家集には、年老いた自らの境遇を詠んだ歌もあるとのことである。
「天徳内裏歌合」に関連して、主催者の村上天皇は、本音かあるいは謙遜(?)しているのか、同様の趣旨の歌を2首残しているようです。その一首は:
「ことのはを くらぶの山の おぼつかな 深き心の何れ優れる」
[概意]=言の葉(和歌)を比べようと思うが、暗部山(=鞍馬山)の道が暗いように(わたしは和歌の道に暗くて)よくわからない。歌の心の奥深さはどれが優れているのか(見極められようか)。
[参考資料]
百人一首に関わる記載は、主に以下の資料を参考にしています。
・(ネット)「ちょっと差がつく『百人一首講座』、筆者不詳 小倉山荘
・板野博行:既報。
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