人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神、真我は絶対的

2025-01-13 06:29:06 | スピリチュアル
いつも“思いを超えている“とか、この超えているということは、“元からある“(内在していると言ってもいいでしょうが)というニュアンスがあります。
私が居る以前からあるもの、その私はそれ無しには存在出来ないもの...それはもう絶対的なものと言ってもいいでしょう。
私は常々それは、神、真我をおいては無いと感じてなりません。
神、真我といっても、神は実在するか、どの宗教で語られる神か、とか真我とは何か、そういう実体はあるのか、とそのように対象化して、我々が考えているようなものでないことは言うまでもありません。
あくまでも、世の中が何を言っているか、信じているか、ということでなく、自分自身に、実存に即したものということなのです。
その自己からして先のとおり、“私は何故ここに存在しているのか“、と考えている以前からあるものです。
それは又、その私の思いを超えたものである、神的なものと一つのもの...それが神、真我は絶対的という由縁なのです。
それは、何か別のものに置き換えることが出来ない、別のものの属性に還元出来ないもの...何ものにも依存すること無く、それ自体でなっている、あり続けるものに他なりません。
“いや、自己は命が尽きたら消えてしまうではないか?“、と思う向きもあるかもしれませんが、それはそう思われた、信じられた自己のことではありませんか?
又意識というものも、それと密接に関わるものではありますが、私はいつも意識が向くとか向けられるとか言っているように、その元から向けられるものかある、ということを示唆しているものです。
この意味で、それは意識を超えたものと言うことが出来るでしょう。
絶対的ということは、相対化出来ない、分割出来ないということです。
ある神信仰は絶対的、あるイデオロギーは絶対的とみなしているものは、その実は相対的な思念に囚われた状態のことを言っているのです。
いかなる宗教、哲学、スピの道、精神的な道においても神、真我を求めない、問題にしないものなどあるでしょうか?
この意味で、これほど普遍的なものは無いと言ってもいいでしょう。
普遍的なものは、あれとかこれに分割することが出来ない...それは個己の在り方と同じなのです。どの宗教とか思想とかに分割出来ないものが、一人一人の我々を超えて、内在しているのです。
自己は普遍的なものと切り離れることが無い...一人一人の神、真我への目覚めが普遍的なものの目覚めでない、とどうして言えるでしょうか?
そして、その絶対的なものが自己実存に切り込んで来たのなら、それと一つになることを求めずにおれなくなるでしょう。
超越的なものと自己、真我は元から一つのものなのだから!...
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唯一無二の、普遍的な道

2025-01-12 07:15:13 | 祈りと瞑想
ラマナ.マハルシは、真我に目覚める方法として、“私は誰か?“と自分に尋ねてゆく、というジニャーニ.ヨガ(知識の道)に通じるような瞑想を伝えていたことはよく知られています。
これは、以前にも書いたように、私にはどうしても馴染むことは出来なかったのでした。
私は誰かと尋ねるのは、言うまでもなく考える私、自我です。
普通は、“私は肉体ではない、考える、思考と同一化した私ではない“、と否定してゆくような在り様になるものですが、どうしても“そう尋ねている私が居座り続ける感じがしてしまうのです。中々思いを超えたものが通る、それに開かれる感じにならないのです。
それが直接的な方法であると言うが、私にはそれほど直接的には感じません。
ラマナは、もう一つその自分を神的なものにゆだね、明け渡してゆく、バクティヨガ(帰依の道)のような方法を奨励していたのですが、これは普通に祈り、全託の道そのものと言ってもよく、すんなり入ってゆけるのです。
しかし、どうしても私には、ラマナが先のそういう意志想念を用いる方法を説いていたようには思えないのでした。
そこに、電撃的に突如あることが閃いたのは、ようやく二年ちょっと前のことです。
それは、ついこないだのように、風邪をこじらせたのが原因からか、あの神的な現臨が感じられなくなった時で、私はただ祈り、待ち望むしかなかったのでしたが、その回路が再び開かれ、臨んだと同時にそれは感得されたのです。
それは、神的なものに意識が向けられることと同じように、私自身に、“私は在る“ことに意識が向けられたということに他なりません。
考えている私、意志想念に頼る私は、ほんの端緒となるだけで、直ちに超えられてしまうのです。これは、直接的でなくてなんであろう!...
もはや、そこにはジニャーニ.ヨガとバクティ.ヨガの二つは無い!...否、こちらがやろうとする方法というものも本当は無いのではないか?
そして、神的なものと真我的なものは、切り離されるものでは無いということがハッキリ示されたのです。
ラマナは、おそらく彼のもとに訪ねて来る多くのヨガの修行者に譲歩して、彼らに馴染みのある、その二つのヨガの方法に則った道を説いていたのでしょう。
その根本には、思いを超えた、無為的なハタラキがあるということなのです。
“私は誰か“、と自我の私が自分に尋ねてゆく、というよりも“私は在る“というその状態に意識を向けてみるのです。
すると、私は一コの私では無く、“私を超えたものによって在らしめられている“ことが直感されるはずです。それは、神に意識を向けられることにより、自己実存が直感されることと一つ、ということなのです。
どうか、このことは言葉、概念のみで理解しようとしないで下さい!
神、真我に目覚める瞑想、祈りのことを言っているのですから!
いや、だから瞑想も祈りも分けられないものなのでした。
これはね、私が現臨感を失った時に私が独自に開発した、唯一無二のメソッドなんですよ!...って、そんなことある訳無い!
古今東西のあらゆる霊性の道において、普段は表側に隠れ、ある時に裏側から突如顕わになる普遍的な道に違いありません!
普遍的なものこそが唯一無二のものなんです!...


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言葉、概念を超えて

2025-01-11 07:23:40 | 求道、探究
いわゆるノンデュアリティと呼ばれる道で、多大な影響をもたらしたマスターにインドのニサルガダッタ.マハラジという人がおりました。
その前のラマナ.マハルシもその系譜で語られることも多いのですが、特にその道の関連でよく引き合いに出されているようです。
二人ともその本は、質問者との対話が主体となっているのですが、ラマナの教えも実に深遠で、ただ言葉、知的概念だけで理解することは困難ですが、このマハラジ(ナチュラルスピリットから二冊出ている)は、さらにぶっきらぼうというか、対手がどう理解しているのか全く無視するかのように、ひたすら自分に示された真理を説いているようなのです。
その点ラマナは、主に質問してくるヨガの修行者などに譲歩して、マントラを唱えるとか、意識を集中する瞑想などにも言及したり、又彼の真我実現に関する主たる道は、ジニャーニ.ヨガ(知識の道)やバクティ.ヨガ(帰依の道)の本質的な部分に触れているようなところも感じます。(ただ私は、それらは通り一辺のその行法の形を超えたもののように理解してますが...)
これに対してマハラジは、もうホントに私には取りつくシマが無いようで、戸惑いを覚えることが多いです。
例えば、ラマナのように“私は在る“という意識の状態を求めなさい、と説いたかと思うと、一方では、“私は在る“というのは概念(?)なのだから、それは超えなければならない、と説いたりしているのです。
意識を超えた絶対的な状態というものがあるんだとか!...ところが意識というのは自然発生するものだと言う...まあ、これは当たり前のことのようですが、少なくとも私には、その無為的なものをどうやって超えていいのか分かりゃしないですよ。勿論、その絶対状態とかもです。
(意識は概念?...何がそう思うのか感じるのか?...意識無しに誰が何を語れようか?)
...と、こう書いているだけで、何を言っているのか分からないと思う方もおられるでしょう?
分からなくていいですよ!(長々とすみません!)...分からないものは分からなくていいのです。
本当に腑に落ちて、得心することも無いのに、頭だけで分かったつもりになるのは、実にナンセンスなことですよ。
霊性の道は、観念のお遊戯でも、常人を超えた境地に至ろうと、エゴマインドをくすぐられることでも無いのです。(悟りマニア多いのお!)
本当には分からないことを分かろうとするのは、そう考えている自分だ、といことを知らねばなりません。
先の例で、仮に意識というのは概念だとすると、その意識を超えた絶対状態というものも、頭脳知にかかれば容易く概念となり得ると言えるでしょう。
言葉、概念というものは、思いを超えたもの無しには超えられないのです。霊性も開かれないのです。
だから、瞑想でもいいですが、祈ったらいいのです。
とにかく自分の思い、力を超えたものに乗っからなければならないでしょう。(マハラジも本当に伝えたいことはそういうことだと思いますよ)
自分を超えたもの、あなたの主なるものにつながることから開かれることなのです。
あーでもない、こーでもないという理屈では通りません。
主にゆだねれば、分かっても分からなくても、“通る“、開かれるものを感じて来るでしょう!...
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わが主を頂くこと

2025-01-10 05:39:58 | スピリチュアル
当たり前のことですが、こういう生きにくいご時世に生きている上では、時に怒りとか憎しみ、何かショックなことがあってずっとそのことが頭から離れないとか、負の感情が起きて、それに巻き込まれるとか、引きずられることもあるのです。
そういうことが無いのなら、我々に思考や感情などは元々無かったはず!...それは有る、出てきちゃうんだからしょうがないのです。
何?、修行が足らない、未熟だと?...分かりきったこと!...元より修行などしとらんし!...
修行に余念の無い人なんかは、現実にそういうことが起きているのに、“いや、そういうことじゃダメなんだ、そんな自分など認めらんない、無かったことにして、進んだ自分であることを装おうとかするんでしょ?
それが、ダメなんじゃないですか?...ありのままの自分を受け入れようとしない、自分を誤魔化す生き方をしているんじゃないですか?...
といっても、それもだから思考や感情に巻き込まれ、引きずられているということなんでしょう?
私には、何かと闘い続け、そういう自分を出すまいとして抑え続けなければならない思いから解放されるだけ、らく~に生きられると思われるのですが...
起きてしまったら、出ちゃったらしょうがないのです。まあ、だけどそういうダメな自分がすべてじゃありません。
そういう思い、感情を超えたもの共々が自分なのです。
それで、ちょっと思いの向きをその超えた方に変えてみる。そっちに開いた心待ちで。祈ると言ってもいいでしょう。
勿論、中々そういう心待ちになれない時もありますよ。
まあ、私なんかは自然とそういう方に向けられてしまったりします。
これは何かの修行の賜物か?...知らん!
ちょっと向きを変えようと思い立っただけで、負の思いでいっぱいの心に風穴が開いたようになり、曇り空が晴れるようになって来るのです。
それで、そういう負の思い、感情でいっぱいの自分が自分のすべてでない、ということが分かるのです。
これは、自分を変えようとしたり、自分を高めようとすることではありません。
思いを超えた自分、私の“主なるもの“にゆだねること、わが主に臨んで頂くことに他なりません。(だから修行という感覚が無いのでしょう?)
それで、大抵思いの絡まりは切れてしまうのですが、切れなかったら切れなかったでそれもしょうがないことなのです。
だって、この私が切る訳じゃないのですから!
イヤもう、これがらく~なことなのです。わが主を頂くということは!
なんか段々この一コの私は、主に取られて行くような気もするが...
そうなったらそれも仕方無い!
どこまでも、わが主にゆだぬるしか無いのだから!...








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誰のための目覚めか?

2025-01-08 05:37:47 | 覚醒
精神的な目覚め、覚醒、悟り...
それは誰のため?
分かりきったことじゃありませんか?
私やあなたのためでしょう?
ブッダはこう説いた、こう悟った...だからそれに従わないとならない...
ラマナ.マハルシの教えに従わなければならない...
勿論、そういうものは指針にはなるものだけれど、ブッダやラマナと私は置かれた環境も時代も違うのですよ!
私は私自身に目覚めるしか無いのです。
自己実存に目覚めること無しに、覚醒というものはあり得ないのです。
何段階かの階層を登りつめ、完全覚醒を目指すとか...そんなことは所詮他人事では無いか?
他人の言葉の受け売りに追従してるだけ!
段階的覚醒も完全覚醒も、私やあなたが目覚めることと何の関わりがあるというのでしょうか?
いくら他人の教えに従おうとしても、本当に自分に得心しなければ、自分の中に入って来ません、通ってゆきません。
いや、従うべき対象があり、従う自分が二つになったままではどこまで行っても得心することは無いでしょう。
目の当たりに自分自身にまみえるということが無いのだから!
何かになろう、何かの境地に至ろうとしている限りは!...
それはあなたがそう思っているだけということでしょう?
だから、覚醒というものは、他人事の世界の支配から目覚め、自由になることを置いてはあり得ないのです。
私が私自身に目覚めるだけ!
自分自身に向き合い、受け入れる気の無い者は、ずっと夢を見続け、幻想を追いかけているだけ!
自分自身を受け入れることは、一コの、考えている自分を超えた、全的、まるごとの自分を受け入れることに他なりません。
それは、ずっとここに在り続けるもの...
何故ここから離れて、別の世界に探し、求めなければならないのか?
何故、自分以外の何かになろうとするのだろうか?
いや、一コの自分を超えたあなた自身があなたを求めているのではないか?
ずっと、その手はあなたに差し伸べられているのではありませんか?
あなた自身の神に聞いてみられよ!
その気の無いものに、あなた自身の目覚めは決して開かれることは無いと知るべし!...

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