人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の教師と見えざる導師⑨

2022-07-30 10:17:34 | 人生の教師
出口王仁三郎聖師と言えば、その著書の大多数も復刻されて、今や一教団の教祖という枠を超え、又宗教思想をも超えた霊性の巨人として広く親しまれるようになりました。
私が初めて聖師に触れた昭和53年頃のことを思えば、隔世の感がしてきます。
その主著の「霊界物語」などは、長らく”秘教秘典”、という扱いだったものですが、今じゃ文庫本も出回るようになり、大衆小説のように読まれるようになったのです。
これ、王仁師自ら願っていたことに他ならず、さぞ天界にて本望と感じていることでありましょう。
同じく霊性の大衆化を図っていた、五井先生はというと...私が目に付くものといったら、陰謀論などのオカルト説に囚われた、カルト思考に堕したような例ばかりでして、五井先生の信奉者というのは、こんな人間ばかりなのかと思うと、もうやり切れない思いにさせられていたのです。
しかし、最近ネットを観ていて、私と同じように霊性の道において、五井先生を知ったことが、その大きな糧となっている例も案外多いことに気がつきました。
私自身は、そんなに熱心に惹かれている訳ではありませんが、「奇跡のコース」という、スピの教えがあり、その関係者に結構五井先生に縁のある方が多いようなのです。
先生の教えがその理解の下地になっているという例もあれば、逆に後から先生に触れて、難解な”コース”の教えが分かるようになったという例もあります。
この他、私も一度面識のある、”シャンタ○“、という謎のおっちゃんも、王仁師、”OSHO”などと並んで、自らの霊性の道の重要な導師として、五井先生を揚げていることが分かりました。
彼らが語る五井先生の存在は、一様に一教団の教祖という枠を超えているのです。
ということは、“五井先生以外に正しい教えは無い!”、とする、あの歪んだ宗我意識、カルト思考から自由だ、ということです。
五井先生の道は、普遍性に開かれている!...彼らは異口同音にこのことを証しているのです。
私は正直、うれしくなりました!...それでこそ先生も報われるだろう!...
先生に限らず、すべての霊性を明らかにした者たちは、相対次元を超えた、普遍調和の世界を志向し、その音信を伝えることを本願にしていたのではないでしょうか?
それを生かすも殺すも、後進の者たちの意識の有り様次第でしょう。意識は、どこに向けられているのか?
教団の関係者に言われた通りのことを、ただずっと何十年も繰り返し続けているだけだったら、あまりにもノウが無さ過ぎます!...そこに、愛、平安が感じれるだろうか?
その創始者たる先生に、否その指し示しているものに何故、直接聞かないのか?!
もし、それにブチ当たって、心が揺すぶられ、意識が向けられたなら、おのずと思いを超えた、見えざる導きに与ることになるだろう...それが取りも直さず愛、平安に導かれるということなのです!
見える導師は、見えざる導師と一体になる...そして、この私も...
これが神、導師、私につらなる自然な霊性の歩みではないでしょうか?
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陰謀論と五井先生の道

2022-07-21 11:12:18 | 人生の教師
私がチョイと縁のある、反面教師画伯”T”は、実に40年以上も五井先生の教えに則り、修行を続けているのだそうです。
しかしながら、彼はずっと、こないだの阿部元首相の事件のことにも絡めてましたが、陰謀論にハマり続けているのです!
これ、”神のみ実在する”、”光一元”の光明思想を説く五井先生の道とは相容れないことは、よく考えれば分かることでしょう?
私自身はというと、そういう教えを信条としてタテにするということもなく、それが身についている訳でもありませんが、陰謀論にハマるなんてことはもっと無いです。あり得ない!
といって、それをすべて頭こなしに否定してしまう訳でもなく、現実世界に照らせば、そういうメーソンだか陰始だかの暗躍というものもあるかもしれないのです。
否、ある部分ではあると思った方がいいでしょう。この現実世界というものの多くは、人間の思念が作り出しているものなのだから...
そうです!、陰謀論とは、ヴァーチャルな思念世界に映し出され、作り出された陰性の強い思念の創造(想像)物なのです。
一体、どこまで真実なのか分からない!...然るに、”これこそは真実なのです!、私は見抜いたのです!”、と現場に居た訳でもなく、机の上でその実は、誰かが流している情報に踊らされ、操られているだけなのに、決めつけた言葉を無責任に拡散している...思念から全く抜け出ることなく、脳内で、完結してしまっているのです。
分からないことを、正しい、真実だと決めつけてしまう思念こそは、妄念、カルト思考なのです。
かかるカルト脳に染まっていない、多くの庶民にしてみれば、ウソかホントか分からないマスコミなどの情報など、テキトーに付き合ってればいいだけのことではないか?(無ければ無いで困ることも多々あります)
だのに、数十年に渡って、”消えてゆく姿で世界平和の祈り“を行じていながら、一体何が悲しくて、妄念に囚われ続けなければならないのでしょうか?
口に世界平和を称えて、心の中では、悪魔の支配する地獄世界に向けられているかのようです。
それでいて、完全覚醒を目指しているのだと言う...“ふざけんな!”...ずっと白昼夢に浸ってるくせに!、何度も五井先生を裏切ってるくせに、神、真理への冒涜、いい加減にしろ!、この御仁、一度地獄に落ちてしまえばいいんだ!、そうすれば必死になって神にすがろうとするだろう!...
神を求めることは、道楽ではありません!、観念のお遊戯ではありません!、自分の力の鍛錬、心の強化ではありません!
本気で神を求め、ぶつかろうとしないのに、中々道が開かれないのは、けだし当たり前のことではないか!...だから、いつまでも妄念に囚われ続ける...
...と、こんなエラそうに、説教みたいなこと垂れているのは、彼とは縁があるからです。そして彼は厚顔無恥の徒だからです!
そうでなく、長年、求道し続けているのに、中々思うように道が開かれないと感じている方には、気分を害してしまったかもしれません。同じように厳しい言葉を投げかけることなんか出来ないです。
でもでも、本当に、本気で神を求めているのなら、何も神秘体験と結びつけなくとも、あの画伯のように何十年も思念世界に迷わされ、平安に導かれないというのは私には考えられないのです。
「神を真実に求め続けている人間を神の方がほっとく訳がないのです」という五井先生の言葉がどれだけ支えになったことか!...気休めで言ってるんじゃないですよ!
実は私の方こそ、五井先生を裏切り続けてきた人間なのです。
世界平和の祈りも消えてゆく姿の教えも身についてません。
だけど、「いい思いも悪い思いも神様の中に入れちゃいなさい、思いは神様の方が消してくれるのです。そうすると、いつのまにか神様と一つになっちゃうのです」という五井先生の道は、本当に宗教宗派を超えた、普遍に開かれた道として、私は知らず知らずに導かれてきたのです。
私がいつもここで書いていることは、この道のバリエーションにすぎないと言ってもいいのです。
そして何も五井先生に囚われなくても、あなたはあなた自身に、あなたの神につながればいいのです。
このことは、五井先生自身異を称えないことでしょう。五井先生の道は普遍世界に開かれているのは確かなのです。陰謀論などのカルト思考とは全く似つかわしくないではありませんか?!
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生きたメモリー

2021-11-06 09:48:56 | 人生の教師
謎の秘教団体(?)大調和協会の命位様という人は、全く世に知られていません。
従って、おそらくこの方について触れている人は、私以外にほとんど居ないと思われます。
それも、この方の本当の素晴らしさというのは、実際に深く交流しなければ分からないでしょう。
私は何度もそういう機会に遇することが出来、その奇縁を感謝せずにおれません。
私の囚われることなしに幾つかの宗教的、精神的団体と関わって来たことは、その交流の中で早くから知られていたのですが、ある時、"私はどういう道を行ったらいいでしょうか?"、という意味のことを訊いたことがありました。
これは実は、本心からというのでなく、それに対して命位様がどういうことを言われるか、知りたくて訊いてみたようなのでした。
すると...「あなたは、"私がこういう道を行きなさいi"と言ったら、"はい、そうします"と言って、従うような人じゃないでしょi」という意味のことが返ってきました。"あー、見透かされたあi"
そして、「あなたは知っているはずですi、あなたを導いているものをi、あなたは、その声にしか従おうとしないのでしょう?、どこまでもその導きのまにまに、自由に、徹して行きなさいませi」ということを言われ、その言葉に深く同調し、揺すぶられました。
それは頭で納得したということでない、ズシンと揺すぶられるものがあったということです。
そういうものを今も尚感じられるかどうかが肝心なことなのです。
これは、命位様が私の心の中を読んでいるとかそういうことじゃありません。
人の業的想念のことなどを当て物式に示されたとて、どうなると言うのでしょう。そんな地獄的なものじゃないi、それは、私の本心にしっかりつながることを示されていたのです。
命位様との交流では、もっぱらこのようなことが行われていたのです。
思えば、私が日頃書いている、例えば現臨に包まれる感じ、超越的なものと内在的なものが不可離である感じなど、ほとんどはその中で身に覚えさせられていたことだったのです。
それがどういうものかという抽象的な、概念的な説明ではなく、具体的な感覚として伝えられて来たものに他なりません。
つまり、命位様という方は、口で物語るのでなく、存在で物語る人であったのです。
生けるハタラキの通路となるご存在であったのです。
その書き物なども幾つか残ってはいるものの、そのハタラキが現実に臨むことに接するのは、直に向き合った者でないとおそらく分からないでしょう。
その息吹に与ることを通して、その得難い縁を思い出さずにいられません。
否、それは過ぎ去った記憶ではありません。生きたメモリーなのです。
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本願力

2021-10-10 09:29:18 | 人生の教師
「弥陀の本願を信ぜんには他の善をも要にあらず。念仏に勝るべき善なかるべき故に。悪をも恐るべからず。弥陀の本願を妨ぐるほどの悪なきが故に」(親鸞)
「私たちがキリストの本願を受け取るときに、いわゆる人間形成とかいうのとはおよそケタ違いの質の違った展開になって、本当の力がそこから出てくる」(小池辰雄)

本願というのは、主として浄土系仏教で伝えられているもので、よく知られているのは、それによって阿弥陀仏となった、法蔵菩薩の"衆生が救われなければ成道しない"、という誓願に因んだものでしょう。
ところがあまり仏教方面には縁がなかった私は、小池辰雄先生がよく述べられていた「キリストの本願」の方に親しんでいたのです。
仏教の方が聞いたら"何だそりゃ?、と思われるでしょうが、よく引き合いに出されていたのは、キリストの十字架の贖罪との関連だったように思います。
しかし、よく聞かされてはいたものの、先の親鸞の言葉共々、理解したことなど一度もありません。
何で千年か、もっと前のことなんか理解出来えようかi?...私に何の関わりがあろうかi?
こういうことは信じるか、どうかだけの問題です。
そう信じただけで、私が救われるのなら、その救いもただそう信じただけのものになるだけでしょう? こんなバカらしいことはないですよi
だから宗教は観念ごとに支配されて、力を失うハメになってしまうのです。
しかし...そういうお話は信じようとしなくとも、最近(多分、このブログを始めるようになってから)は、何だか私が信じるとか思うとかを超えて、それ以前にそのものに会わせよう、会わずにおれなくさせるあるものを感じてならないのです。
惹き付けてやまないものがある。これは理屈ではありません。
何という勿体ない、有難いことでしょうかi
こんな私のことですから、信仰を深めてとか、自分を高めて行ってそうなったという自覚など持っちゃいません。
これがあの御方の本願というものなのか?...現実にそういうものを感じたならどうしようもないじゃありませんか?
小池先生は"本願力"、ということをよく言われていました。
先生の場合は、キリストの本願力であるのは言うまでもありませんが、これは何を信じるということを超えて、普遍的に感じられるものに違いないでしょう。要するに神の、神的な本願力なのだから...
私という人間はどおってことないですが、この恩寵の事態というものは全く驚くばかりですi
"俺が一体何をしたって言うのかi こんなことになっちまってi"(逆説の感興詞)
私は何も出来ないけれど、せめてこのような証を伝えざるを得ないのですi(どっかで小池先生に似てきたか?)
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ベーシックな五井先生

2021-10-06 12:03:37 | 人生の教師
私はこれまで幾つかの宗教的グループと関わってきたのですが、そのグループ固有の、そこにしか通用しない教えや行法といったものは身に付いていないのです。
もっとも、私が日頃言っているようなことは、私にしか通用しないのかもしれませんが...
しかし、実体験で言えば、例えば"現臨にある"、というようなことは宗派を超えて、どこへ行っても通用しますよ。それは言葉の違いに過ぎないもので、どの宗派だろうと、そのことが根幹となるものではないでしょうか? こういうことが普遍的なものなのでしょう。
このように、そのグループを通して何人かの教師たちの教えに接して来ましたが、あまり本質的でない部分を超えて、ずっと根付いているものはこういうものなのです。
五井先生との関わりでも、例えば先生がキリスト、釈迦、老子などの五聖者と合体した、とかいう話はどうでもいいことで、それが私の実存、本心を開くことと何の関わりがあるでしょうか? 
先生の教えの中には、ともすればこれから離れて、宇宙人のこととか(そのことを否定する訳ではないが)、空想、観念ごとに馳せてゆく要素があったことも事実でしょう。しかし、"宗教の本質は本心を開くことだ"、ということは何度も述べられていたことです。
そして、その方法は祈りであると...それが"世界平和の祈り"でなければならない、又その指導用のテープに則ってしなければならないとするならば、もうその集まりにしか通用しなくなるでしょう。そんなことが本質的な問題でないことぐらい、カルト脳に陥っていない限り、分からないでしょうか?
先生は、普遍性に開かれたものを目指していたということは、少なくとも私には伝わってきます。
画一的に定められたことを祈ることじゃなく、自分が一番スーッと入り安い祈りでいいはずなのです。
あの祈りごとも、世界平和のことなら誰でもがイメージしやすいであろう、ということから生まれたのでしょうが、入り安さとは次のことと密接につながるのです。
祈るということは、(現臨とかややこしいこと言わんでも)単純に神に思いを向けること、心を常に神に満たしておくことです。(これは、五井先生の言葉に即して言っているのです)
又、先生の教えに、"消えてゆく姿"というのがあります。一部にはそれが難しく、その教えを興したことは失敗だった、と言っている人も居るのです。
私などは、そんなもん、手のつきようが無かった、だからやる気も起きなかったですよi
自分でやろうとしたらそりゃ難しいに決まってますよi...教団の人たちがどういう指導をするのか知らないけど、あれは"神の方が消してくれる"、ということなのであり、それが本質的なものであるはずなのです。
これは、先の祈り、神に思いを向けることと切り離されたことじゃありません。思いを神に向けることで、"自ずと"消えてゆくのです。
又、何かネガティブな、邪に感じる思いが沸いてきたら、それを自分の思いで止めようとしないで、神の方へ振り代える、向き変えるということで、自ずと変えられてしまうことを説いているのです。
このように、本質的、ベーシックなことというのは、色々な教えや行法にある訳じゃないのです。それも所変われば品も変わるようでは、その都度、当人もそれに応じて変えて行かねばならなくなって、何が自分の本心、本来の在り方なのかが分からなくなってしまうでしょう。
"絶えず祈りなさい、思いを神に向けなさい"...先生の教えは単純すぎて、素通りし勝ちになるところがあります。そこを意識してその本を読むなどしてみたら、それだけで"じんじん"してきますよ。
そして、一度神の方がこちらの意識に臨んできたら..."ああ、なんという幸福、他に何を望もうかi"、という状態になってしまいます。
観念的に"へえ、そうか"、と思っているだけのことと、現実にそれが臨むこととは、世界が変わってしまうほどまるっきり違うことなのですi
私の精神的な道で、ベースになっているのは、このようなことで、それは身に付ける、付けよう、というよりも、いつの間にか身に覚えられていることなのです。
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