人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の教師と全一なるもの

2020-09-24 10:30:22 | 人生の教師
スピ的なことに関して、いつも私がここで書いていることは、私が共感した幾人かの人生の教師たちからほとんど借りたものと言ってもいいのです。
別の面からは、そのいずれの教えにも従属しない、それらを突き抜けた、普遍的なものに向けられているようにも感じています。
これは自分で言うのもおかしいことで、傲慢とも取られかねないことなのですが...
しかし、それはこの私から出てくるものではないので、自負心などに囚われるのは滑稽なことなのです。もし、そういうものを感じるとしたら"こいつあ、何て小さい、エゴの強い人間なんだi"、と思って頂いていいでしょう。(私はそれを否定しないが...)
私は、ほとんど信用されない、教師でも何でも無い人間なのです。又特定の教えを奉じ、その集団に従属していた訳でも無かった...一時そういう時期もあったが、続けることは出来なかったのです。
今ではハッキリと言える...私は諸々の教えに共感したのではなく、その指し示すものに共感してきたのです。
言い換えれば、見える導師の中に、見えざる導師を見ていたのです。
そこに神的なものの息吹が感じられたから...
私にとっての人生の教師とは、これを伝え、示し、つなげようとする存在に他なりません。
ある教えの狂信者は、"この先生の教えに勝る教えは無い!"、と臆面もなく言う。こういう人間に限って、広く様々な教えのことはまるで知らず、知ろうともしないものです。
そして、それは本当には神的なものに触れていない、知らないということでしょう。
そうでなければ、"この教え、この先生"への固執した思い、狂信性から抜けられるはずです。
実に神的なものにあって、思いを超えられるのですi
そして多くの宗教、スピでは神そのものではなく、教え、人物、その他の従属物が神にスリ代わっているのです。
こう言って、私はもっと視野を広げて、様々な教えに触れなければならない、と言っているんじゃありません。
そういうのは、イイカゲンな私が持ったパッションなのであって、人それぞれの縁次第であるのは言うまでもありません。
ある教え、教師との強烈な出会いから、その他のものに触れようという必要を感じなくなることだってあるでしょう。
私などは幾つかの出会いの度にそう思ったものですが(笑)...
これには、その縁により、その教えの向こうで、神的なものに出会っている、という場合もあるでしょう。
そこでは一つのものの中に、全てのものが感得されてあるはずです。
諸々の中の一つではない、全てで一つのもののことですi (これは、相対観を超えているか、どうかということを端的に言い表しているのです)
神の代名詞はいくつあっても足りないもの...それは全一なるものの代名詞なのですi
こういう言葉がこの私から出てくる訳が無いi
だからうかつに信じてはならない...(誰もそうしない?)
本当に信じるべきは、あなたの神の声なき教えなのですi
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救世主と偽救世主

2020-06-12 11:55:17 | 人生の教師
出口王仁三郎師は、その信奉者のみならず、一部からは今でも救世主と目されているようです。
自身でも、あたかも自分が救世主、再臨のキリストであるかのように思わせるような発言をしているのです。
例えば、「霊界物語」の64巻(上)に「メシア再臨の先駆として神の命によりはるばる出て来た、ルートバハー(大本)の教主ウヅンバラ.チャンダー(瑞の御霊出口聖師)...」「メシアといふ人格者は、目下高砂島の下津岩根に諸種の準備を整えてをられます。そして、その名はウヅンバラ.チャンダーと謂って、実に慈悲博愛の権化とも称すべき神格者です」と、教主のその又先駆のルートバハーの宣伝師ブラバーサをして語らせているのです。
私は最初この箇所を読んだ時は、口述者は本人な訳だし、実際にそのモデルが居たとされる、このブラバーサこそが聖師自身のことを指しているのかな?と感じたものでしたが、何分「物語」である故、取り方は各自の自由なのでしょう。
この一方で、聖師は「信天翁(アホウドリ)」という歌で、こんな言葉を言い残しており、色々論議を読んでいるようです。
「...今、大本にあらはれし 変性女子はにせものだ 誠の女子があらはれて 
やがて尻尾も見えるだろ ...美濃か尾張の国の中 変性女子が分かりたら 
もう大本もダメだろう...」(抄)
ここできっぱりと自分が救世主格、変性女子であることを否定しているのです。ただその後、実際にこれを鵜呑みにした本物気取りの者が出現したのか、続編のような形でこう歌っています。
「この歌を各自のことに誤解して 罪を重ねる曲人もあり」
この大本の周辺だけでも、"我こそは真の神柱、救世主なり"、を自称する人物は沢山居ました。それは、そこから独立して一派をなした教祖たちの存在などにも伺えることでしょう。
上記巻にも登場する「霊界物語」では敵役ながら主役を食ってしまうほどの活躍をする高姫は、出口直開祖の三女で、聖師に敵対した「福島久子」がモデルとされますが、その登場以来ずっと、その自分が真の神柱であること、又そのことを証する必須アイテム(?)である、"神宝"を奪取することに執着し続けているのです。
ここで、聖師が言いたかったことは、"肉体の、思われた自分がそのまま神柱、救世主ではない"、ということではなかったでしょうか?
本物の救世主は、見えない存在であり、肉身の存在はその存在を知らせる先駆であり、あくまでその代行人なのです。聖師はどこかで"自分はスサノオノミコトの地上代行人だ"、と言っているのです。
上掲の歌で"みのおわり"という箇所は、"身の終わり"にも通じるでしょう。肉体に囚われた思い、"自分が"という思いを終わりにしないと、見えない神柱としてのハタラキは現れないのでしょう。
このことについて、世界的に知られたメシア、キリスト.イエスはどうだったでしょう。彼は"自分は何もなし得ない、父のみこころのままになすのである"、と言っていたではありませんか? そしてその肉体は十字架にかかられたのですi
"肉体のまま、肉の思いのままでありながら、救世主を自称するのは、ニセモノである"、"霊なる救世主を指し示すものがホンモノで、その存在は...無である"
聖師は、この"善と悪の鏡"を映し出すこと、型示しに徹しておられたのでしょう。


コメント (19)
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人生の教師と見えざる導師⑦

2020-06-10 12:10:37 | 人生の教師
少し前、"内なる導き"という記事で私は、内なる、見えざる導きへとシフトすることは、見える導師、教師たちとの関わりが終わってしまうかのようなことを書きましたが、そんなことはありませんi 少なくとも私には...。
あれは、あくまで特定の教師への個人崇拝が終わる、ということを言っているのです。
いうまでもなく、教祖も教師も人間なのです。ただ、その形ある彼らは、形なき命の媒体、見える導師は見えざる導師の象徴であり、こちらの内なるものへと理解が深まるにつれ、彼らとの外的な関わりは変わってゆくのも自然の流れでしょう。
同時に彼らの、言葉として伝えられた教えを通して、言葉に言い表せない"響き"を感受させられるようになるものでしょう。
小池辰雄先生を例にすると、私は20年ほど前、先生創刊の「エン.クリスト」誌の記念号で、その集会からは遠ざかっていたにも関わらず、おこがましくも「小池先生から受けた恩恵は一生ものですi」などと書いたりしたのですが、その気持ちは今も変わりありません。
一寸思い上がった言い方になるかもしれませんが、私には細胞レベルで先生の教え(先生は、この言葉が嫌いで、教えなどと思ってないでしょうが...)が内部に染み透っているように感じているのです。
「"みたま"の恩恵を本当に受け取ってごらんよ。これはもう、居てもたっても居られないから。ありがたくて...」(小池先生晩年のガラテヤ書講話)
いや、もうそういう文字を読んでいるのか、こっちの中から出てくるのか...神、キリストと先生と私が渾然一体となっているように感じられてなりません。
これは、見えざる導師と見える導師と私が一つになっているということではありませんか? だからと言って、この思われた私がそうなるという訳じゃありません。「相対の奥に絶対の世界を頂いている、ということが大事なんだ」(同)という訳です。
こういうことは、私における他の教師についても言えることなのです。小池先生の信奉者が聞いたら不愉快に感じるかもしれませんが...
もし、それが本物の導師ならこのように導かれるのが普通でしょう。そうでなきゃおかしいでしょ?
いつまでも、"OO先生、OOの神様、ははあっ..."、"ああ、私は教えに背いちゃいました、罪を犯しました。許して下さいi"、なんてやってて何が楽しいんですかi
自分と対象と二つになっているのでなく、一如の関係にならないと、この根源からの歓喜は出てこないのです。
人生の教師という存在は、こちらがその指し示すものとつながらなければ生きてきません。
ただ奉っているだけなら彼らを死んだ偶像にしているのです。偶像崇拝に陥っている者の精神も枯渇してしまうです。
そして、こちらがそれにつながることによって、その見えざるつながりにおいて生き続けるのでしょう。だから一生ものなのです。
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世界平和のことなどどっちでもいいが...

2020-03-13 02:25:39 | 人生の教師
五井先生が言うには、"「世界平和の祈り」というのは一宗一派の祈りではない"、とのことです。
しかし、この祈りが生まれた当初はいざ知らず、今となってはそう受け取るのは無理というものでしょう。
"五井先生、白光、世界平和の祈り"というのは、もう垢がつくほどワンセットのものというイメージが定着しているのです。
私はこれまで、特定の宗教、グループにしか通用しないものを推奨するようなことは、ほとんど書いてこなかったつもりです。
もっとも、私にしか通用しないものは書いているかも知れませんが...簡単にマネなど出来ない(?)ごく個人的なことを、自己満足で書いているに過ぎないのです。
ところで改まってですが、世界平和って何でしょう? この世から戦争や自然災害や数多の社会問題が無くなることでしょうか?
今だったらさしずめコロナ.ウイルス問題が終息することでしょうか?
おそらく、こういうすべての現象として現れる問題が無くなったとしても、我々から不幸災難は無くならないと思いますよ。
何故ならば、目に見えるような不幸が解消されたとしても、我々の意識は本来からの幸福に根差していないからです。
本来なら生きている、生かされていること自体が幸福なはずが、生きることは絶えざる不安とそれへの戦いの連続のように感じられるのではないでしょうか? 逆に考えればこの世から目に見える不幸を解消することは不可能と言えるのです。
だから、アタシャ、世界平和のことなどどっちだっていいと思っているのです。
その上、"世界平和の実現にはこの方法しかないi"、"そのための祈りの文句はこれしかないi"、などと血迷ったこと言おうものなら、それ以外の道の人たちが黙ってないか、自らの独善的世界に閉じこもってしまうのがオチです。
だからねえ...アタシャ人からは如何に不幸な人間に写ろうが、自分の幸福のことを考え、追求し、満足してりゃいいのi
あのねえ...もう、こうして書いていることからしてそうなんですよi
だけどねえ...どうしても、こうしても見えない何かが働いて、私個人のままにはさせてくれないんですよi
そうなることは、私は直接そういうものを見た訳じゃないけど、"普遍性"としか言いようのないものに意識が広がってゆくからです。
普遍性とは分かりやすく言うと、"こうでなければならない"ものが無いということでしょうか?
で、世界平和のことなどどっちでもいいけど、この普遍なるものと私は切り離されない感じになってきちゃうのです。
つまり、"ああ、この愛と平安がこのすべてのものに及びますように..."という祈りが私の個人的な祈りだったものになってしまうのですi
どういう形にせよ、どういう思いにせよ、すべてのものがこの平和の源泉そのものとつながれば...こういう願いは自ずと出てくるものです。
五井先生の本を丹念に読めば、型として示された、表向きの「世界平和の祈り」というものの内実には、"普遍的な、全一的祈り"の精神が込められているのをヒシヒシと感じずにおれません。
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消えてゆく姿とは?

2020-03-12 03:12:36 | 人生の教師
私は求道の初期の頃、五井先生と縁があったのですが、必ずしも先生が残した教えや行法に則った道を歩んできた訳ではありません。
だけど、何故か私は先生が"表向き"あまり言ってなさそうで、反面どうも言いたそうに感じることを書いている、あるいは書かされているようなのです。
例えば私は「消えてゆく姿」という教えなどは、理解したことも無ければ、理解しようという気にもならなかったものです。
"業かなんかが消えてゆくらしい...しかし、そういう姿があるのか?...それを見てればいいの?..いや見たり、追っかけてたら消えないの?"、とか考え出したら訳が分からなくなりそうでした。
他では「消えてゆく姿の教えは難しい、それから離れてみてラクになった、ああいう教えは失敗だったと思う...」、と自身のブログに書いている古い白光の会員だった人も居るのです。
又、長年その「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の行法をしていたある信者が、どうでもいいような陰謀論やオカルト的教説にハマり、トラワレ続けているという、"消えてゆかない姿"を見るにつけ、それが如何に観念ごと、形式ごとに堕しているかを思い知らされることで、やはり難しいものだと感じたりするのです。
改めて感じることは、それは取っ掛かりとしては、頭で理解したり、行法という形もあるだろうけれど、そういうもの自体、本来消えてゆくものではないか、ということです。
つまり、それはこちらがどう分かるとか、どう行じるかではなくて、"神に思いを向けていれば、自ずと思いは消えてゆく"、"神にあって"そうなる、ということではないでしょうか?
こりゃあ、分かるも分からぬもない、そうなるんだからしょうがないi
これは、現臨なるものが臨めば、自ずと分かることなのであり、自分で分かろうと、やろうとする向きには絶対に分かりません。
丹念にその著書を読んでいれば分かりますが、五井先生は随所でそういうことも言っているのです。
先生は「消えてゆく姿ということをハッキリと言明したのは私が初めてなんですよi」と言ってましたが、そうかもしれません。
しかし、その言葉に置き換える教え、形として行じられるものとしては、あくまで方便だったと言ってもいいでしょう。
それにトラワレたら消えてゆかない姿になりますよi
しかし、逆に考えてみると、その指し示しているものは、実に大きく、深いものがある、そういうものがそこから開かれてくる、ということをヒシヒシと感じずにおれませんi
特に関わり方次第によっては、罪意識から自分を責め続けたり、思いががんじがらめになって苦しんで来た人間には、大変な福音ともなるものだったでしょう。
私は表層では、分かった気がしなかったですが、どっかでそういう下地が出来ていて、知らずに道が開かれたようにも思うのです。
五井先生が主として居り場としていた大衆宗教の道には、宗教的業とも言うべき、幾多もの取違い、迷蒙、トラワレなどが付きまとうものです。それはある型を示す上では宿命だったと思います。
しかし、型というものには、それを超えたものも示されてあるものでしょう。
今は、その隠されていた奥義が開示される時節を迎えているように感じております。
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