スピ的なことに関して、いつも私がここで書いていることは、私が共感した幾人かの人生の教師たちからほとんど借りたものと言ってもいいのです。
別の面からは、そのいずれの教えにも従属しない、それらを突き抜けた、普遍的なものに向けられているようにも感じています。
これは自分で言うのもおかしいことで、傲慢とも取られかねないことなのですが...
しかし、それはこの私から出てくるものではないので、自負心などに囚われるのは滑稽なことなのです。もし、そういうものを感じるとしたら"こいつあ、何て小さい、エゴの強い人間なんだi"、と思って頂いていいでしょう。(私はそれを否定しないが...)
私は、ほとんど信用されない、教師でも何でも無い人間なのです。又特定の教えを奉じ、その集団に従属していた訳でも無かった...一時そういう時期もあったが、続けることは出来なかったのです。
今ではハッキリと言える...私は諸々の教えに共感したのではなく、その指し示すものに共感してきたのです。
言い換えれば、見える導師の中に、見えざる導師を見ていたのです。
そこに神的なものの息吹が感じられたから...
私にとっての人生の教師とは、これを伝え、示し、つなげようとする存在に他なりません。
ある教えの狂信者は、"この先生の教えに勝る教えは無い!"、と臆面もなく言う。こういう人間に限って、広く様々な教えのことはまるで知らず、知ろうともしないものです。
そして、それは本当には神的なものに触れていない、知らないということでしょう。
そうでなければ、"この教え、この先生"への固執した思い、狂信性から抜けられるはずです。
実に神的なものにあって、思いを超えられるのですi
そして多くの宗教、スピでは神そのものではなく、教え、人物、その他の従属物が神にスリ代わっているのです。
こう言って、私はもっと視野を広げて、様々な教えに触れなければならない、と言っているんじゃありません。
そういうのは、イイカゲンな私が持ったパッションなのであって、人それぞれの縁次第であるのは言うまでもありません。
ある教え、教師との強烈な出会いから、その他のものに触れようという必要を感じなくなることだってあるでしょう。
私などは幾つかの出会いの度にそう思ったものですが(笑)...
これには、その縁により、その教えの向こうで、神的なものに出会っている、という場合もあるでしょう。
そこでは一つのものの中に、全てのものが感得されてあるはずです。
諸々の中の一つではない、全てで一つのもののことですi (これは、相対観を超えているか、どうかということを端的に言い表しているのです)
神の代名詞はいくつあっても足りないもの...それは全一なるものの代名詞なのですi
こういう言葉がこの私から出てくる訳が無いi
だからうかつに信じてはならない...(誰もそうしない?)
本当に信じるべきは、あなたの神の声なき教えなのですi
別の面からは、そのいずれの教えにも従属しない、それらを突き抜けた、普遍的なものに向けられているようにも感じています。
これは自分で言うのもおかしいことで、傲慢とも取られかねないことなのですが...
しかし、それはこの私から出てくるものではないので、自負心などに囚われるのは滑稽なことなのです。もし、そういうものを感じるとしたら"こいつあ、何て小さい、エゴの強い人間なんだi"、と思って頂いていいでしょう。(私はそれを否定しないが...)
私は、ほとんど信用されない、教師でも何でも無い人間なのです。又特定の教えを奉じ、その集団に従属していた訳でも無かった...一時そういう時期もあったが、続けることは出来なかったのです。
今ではハッキリと言える...私は諸々の教えに共感したのではなく、その指し示すものに共感してきたのです。
言い換えれば、見える導師の中に、見えざる導師を見ていたのです。
そこに神的なものの息吹が感じられたから...
私にとっての人生の教師とは、これを伝え、示し、つなげようとする存在に他なりません。
ある教えの狂信者は、"この先生の教えに勝る教えは無い!"、と臆面もなく言う。こういう人間に限って、広く様々な教えのことはまるで知らず、知ろうともしないものです。
そして、それは本当には神的なものに触れていない、知らないということでしょう。
そうでなければ、"この教え、この先生"への固執した思い、狂信性から抜けられるはずです。
実に神的なものにあって、思いを超えられるのですi
そして多くの宗教、スピでは神そのものではなく、教え、人物、その他の従属物が神にスリ代わっているのです。
こう言って、私はもっと視野を広げて、様々な教えに触れなければならない、と言っているんじゃありません。
そういうのは、イイカゲンな私が持ったパッションなのであって、人それぞれの縁次第であるのは言うまでもありません。
ある教え、教師との強烈な出会いから、その他のものに触れようという必要を感じなくなることだってあるでしょう。
私などは幾つかの出会いの度にそう思ったものですが(笑)...
これには、その縁により、その教えの向こうで、神的なものに出会っている、という場合もあるでしょう。
そこでは一つのものの中に、全てのものが感得されてあるはずです。
諸々の中の一つではない、全てで一つのもののことですi (これは、相対観を超えているか、どうかということを端的に言い表しているのです)
神の代名詞はいくつあっても足りないもの...それは全一なるものの代名詞なのですi
こういう言葉がこの私から出てくる訳が無いi
だからうかつに信じてはならない...(誰もそうしない?)
本当に信じるべきは、あなたの神の声なき教えなのですi