新年明けましておめでとうございます。
紺碧の空模様に恵まれた元旦でしたが...
私は朝から"フン"だりけったりでして...到底恥ずかしくてくわしい話など出来ませぬi
アレを我慢することが出来なくて、理性も何もかもが吹っ飛んでしまい、ついにゴール寸前で事が及んでしまったのでしたi
あの、真面目そうな、このところスッカリブログのアップの頻度が落ちていて、今年からボチボチ増やしていきそうな、悟り系人気ブロガーさん(このヒトは既にひと頃その界隈で連日のように筆、いや指を奮っていたのです)じゃないけど、"ウンコクサイ"ことになってしまったのですi
人間年取るとアチコチの筋肉は緩むは、堪え性は失せてくるわでメンドクサイ事が多くなるけど...ああ、情けなや...
これと言うのも、初詣で近くの神社で長蛇の列にそれを我慢して並んだためです。
お腹の辺りがゴロゴロとアヤシイと思ったら諦めるのが肝心です。
それでも私はそういうクサイ脱線はあったものの、めげずに毎年恒例の氷川神社三ヶ所を廻りました。
悟り系スピなどでは、神社参拝など見向きもしない人も居るでしょうが、私はする時はします。
それはまあ、儀礼の一環ではありますが、この"表側"の世界では、意を体で表すという、形に乗っ取った礼拝の意義もあるでしょう。
これは神道では顕斎に当たるのですが、夜は形なき礼拝、幽斎みたいなことをしています。
最近やたらとクエーカー教徒じゃないけど、ブルブル上下左右に"震え"が発現します。(神道では"ミタマフリ"と言います)
きっと、知らず知らずに心身にストレスが溜まっていたのでしょう。
公的な場では、こんなことは出来ないですが、私はいつの頃からかパンパンと形式的な参拝をしていても、あのジンジンとしてくる内的な感覚が伴ってくるのがフツーになってしまいました。
形ある礼拝では、神は自己の外なる対象としておろがむということをする訳ですが、そういう象徴的な思念に意図的に乗っ取るということと、意識の有り様がその客体の方に結び付き、とらわれてしまうということとは全く意味合いが違うことです。
(後者の場合は内なる生命の発露を閉ざすことにつながります)
対象としての神と内なるものとは別々のものにはならないのです。
そして私は、特に昨年神的なものが他者として意識せられた時に、よりそのものと一体のものとして実感されることを示されました。
逆説的ですが、この一体感は例えばこの思われた私が、スピ系で広められているように"神はわが内にお在す、私は神と一つ"と信じ、思い込もうとすることで断ち切られます。
よく考えてみれば、それは思いを超えてハタラクものを、思いの中で思いをより強めていくようなことだからです。
まず、我々は"思いの中に居る"ということに気付かなければ何一つ始まってこないのです。
そして、"始めに神、ロゴスありき"、 生ける命を召喚せねば話になりません。
神道の祭礼には、そうした内なる意識の在り方を象徴的に表しているのです。
思いから離れるには、それが向けられるサムシングが必要なのです。
その神的ハタラキというものは、こちらがそうしようとする意志より先に、向けようとする先に、向かわしめられてしまうものなのです。
この根源的力の前には、"トイレを探そうとフン闘する意志"などあまりにも間に合わず、無力です。
神を他者としておろがむ心は、我々の留まることを知らない蒙昧なる思い上がりの抑制に通じているのです。
これは倫理の問題でなく、神人の親子の如く一体たらんとする"かんながらの道"の手振りそのものと言えるでしょう。
("ウンコクサイ"さんの兄貴分のAさんも最近はノンデュアリティが行き詰まったのか転向した?ようです)
かんながらたまちはへませ
紺碧の空模様に恵まれた元旦でしたが...
私は朝から"フン"だりけったりでして...到底恥ずかしくてくわしい話など出来ませぬi
アレを我慢することが出来なくて、理性も何もかもが吹っ飛んでしまい、ついにゴール寸前で事が及んでしまったのでしたi
あの、真面目そうな、このところスッカリブログのアップの頻度が落ちていて、今年からボチボチ増やしていきそうな、悟り系人気ブロガーさん(このヒトは既にひと頃その界隈で連日のように筆、いや指を奮っていたのです)じゃないけど、"ウンコクサイ"ことになってしまったのですi
人間年取るとアチコチの筋肉は緩むは、堪え性は失せてくるわでメンドクサイ事が多くなるけど...ああ、情けなや...
これと言うのも、初詣で近くの神社で長蛇の列にそれを我慢して並んだためです。
お腹の辺りがゴロゴロとアヤシイと思ったら諦めるのが肝心です。
それでも私はそういうクサイ脱線はあったものの、めげずに毎年恒例の氷川神社三ヶ所を廻りました。
悟り系スピなどでは、神社参拝など見向きもしない人も居るでしょうが、私はする時はします。
それはまあ、儀礼の一環ではありますが、この"表側"の世界では、意を体で表すという、形に乗っ取った礼拝の意義もあるでしょう。
これは神道では顕斎に当たるのですが、夜は形なき礼拝、幽斎みたいなことをしています。
最近やたらとクエーカー教徒じゃないけど、ブルブル上下左右に"震え"が発現します。(神道では"ミタマフリ"と言います)
きっと、知らず知らずに心身にストレスが溜まっていたのでしょう。
公的な場では、こんなことは出来ないですが、私はいつの頃からかパンパンと形式的な参拝をしていても、あのジンジンとしてくる内的な感覚が伴ってくるのがフツーになってしまいました。
形ある礼拝では、神は自己の外なる対象としておろがむということをする訳ですが、そういう象徴的な思念に意図的に乗っ取るということと、意識の有り様がその客体の方に結び付き、とらわれてしまうということとは全く意味合いが違うことです。
(後者の場合は内なる生命の発露を閉ざすことにつながります)
対象としての神と内なるものとは別々のものにはならないのです。
そして私は、特に昨年神的なものが他者として意識せられた時に、よりそのものと一体のものとして実感されることを示されました。
逆説的ですが、この一体感は例えばこの思われた私が、スピ系で広められているように"神はわが内にお在す、私は神と一つ"と信じ、思い込もうとすることで断ち切られます。
よく考えてみれば、それは思いを超えてハタラクものを、思いの中で思いをより強めていくようなことだからです。
まず、我々は"思いの中に居る"ということに気付かなければ何一つ始まってこないのです。
そして、"始めに神、ロゴスありき"、 生ける命を召喚せねば話になりません。
神道の祭礼には、そうした内なる意識の在り方を象徴的に表しているのです。
思いから離れるには、それが向けられるサムシングが必要なのです。
その神的ハタラキというものは、こちらがそうしようとする意志より先に、向けようとする先に、向かわしめられてしまうものなのです。
この根源的力の前には、"トイレを探そうとフン闘する意志"などあまりにも間に合わず、無力です。
神を他者としておろがむ心は、我々の留まることを知らない蒙昧なる思い上がりの抑制に通じているのです。
これは倫理の問題でなく、神人の親子の如く一体たらんとする"かんながらの道"の手振りそのものと言えるでしょう。
("ウンコクサイ"さんの兄貴分のAさんも最近はノンデュアリティが行き詰まったのか転向した?ようです)
かんながらたまちはへませ