少し前に「エンライトさんは、亡くなられて無に帰したのか、無限地獄に堕ちているのか分からない」という旨のコメントを頂いたのですが、もちろん私にもそんなこと分かろうはずなどありません。
地獄というものがあるかどうかも分からないことです。
私は、それに対してどう返していいか分からないまま、テキトーなこと書いてしまいました。
「永遠に無に帰すことが、無限地獄に堕ちてしまうことなのか、どうか分からない、云々」と...いささか心無いこと書いてしまったかな、と気になったのですが、あくまでこれはどこまでも"分からん"ことなんです。
ただ、この時次のようなことが私の頭の中に過っていたのは確かなことです。
エンライトさんは、確か永遠の虚無に消え去るという、究極?の非二元の有り様には、所謂真我とか魂、神というものも無いという旨のことを述べていたかと思うのですが、そこにはあらゆる相対次元が超えられているので、苦難というものも愛というものも無いそうです。
真我に関して、私は便宜的にそういう言葉を使ってしまいますが、それは本来神や魂というものがそうであるように、輪郭も境位も無く実体など分からないものなのです(少なくとも私には認められません)。
これはあくまで、そういう実体無きリアルなあるもの(これは...これこそは"ある"のですi)に出くわした時、「今まで自分と思われた自分は本当の自分ではなかったi」という実感によって導き出されるものなのです。
言うまでもなくそうした事態というものは、自分の意志、力によっては到底預かることの出来ないものです。恩寵としか言い様のないものです。
そしてそこには愛、無条件の愛としか言い様のないものがすべてを満たしています。それ無くして、そもそもそういう事態は起こり得ません。
その愛はこの世のどこにも見いだすことの出来ないもので、"愛し、愛される"という関係性も無く、無機質なものを連想させる法則性といったものを完全に超えています。故に無条件なものが実感されるのです。
そこにこの世の愛のように、憎しみや不幸に転じてしまうような相対的なものは認められないのです。
こういう消息は多くのスピ.メッセンジャーが伝えていることですが、"個は無い、全体しかない"といった、究極の非二元的有り様を想起させるような説き方は エンライトさんが言うように適切ではありません。
いたずらに重要なものを欠いた 浮いた空虚感を漂わせるばかりです。
そういう実感もあれば、そう感じている"私がある"のも実感されるのです。その真実性を訴えようとするあまり、理に走ってしまうことで、"OOしかない"という、ある非二元ならぬ分離感が生まれるようです。
これはこの消息をもたらしている、愛自体なるものから切り離されることから来ると思われます。
愛にあることから、究極のナントカの境地、至高のレベルといったものに意識が移ってしまうのでしょう。
私は自分がそのものによってしか導かれ得なかったので、そのものに依らざる、"より高みへの道"というものは考えることも、感じることも出来ませんi
愛自体なるものは、見えざる導きと言ってもいいのですが、もしこのもの無しにその道に赴くことになれば、私には想像し難いことですが、個も全体も、真我、魂、神そして愛も無い永遠の虚無に帰してしまう他無いのかもしれません。
私の想像では地獄とは、神的なものから完全に閉ざされた自我的な思いが作り出すヴァーチャルな世界ということなのですが、それは確定した有り様でないので、ある契機でそこから脱け出すことが出来、あるいはその有り様自体が解消されてしまう事もあり得るのです。
では思いというものが超えられた次元で、神的なものからの分離(くどいようですが想像出来ません)という様態は、どういうことになるのか?
それは神も愛も無い魂の永遠の死のような消息でしょうか? 言葉は適切でないかもしれませんが、私にはそのことに無限地獄といったものを想起されたのです。
その真相はおそらく誰からも語られないものでしょう。
エンライトさんは、究極の非二元世界に赴いたらしいですが、生身をもって戻ってきた訳だし(これ又私には考えられないことです)...
そして二元的現実世界に即したハートへの気付き、魂の願望というものを強調してメッセージを発信するようになった訳です。
おそらくは愛というものの大切さに気付かれたのかも分かりません。
まあ、あっちへ行ってしまった訳だし、"遺稿"から汲み取るしか、考えても分からないことですが...そういうものは確かに感じられます。
非二元の世界を知った人間はそうならざるを得ないのかも分かりません。
地獄というものがあるかどうかも分からないことです。
私は、それに対してどう返していいか分からないまま、テキトーなこと書いてしまいました。
「永遠に無に帰すことが、無限地獄に堕ちてしまうことなのか、どうか分からない、云々」と...いささか心無いこと書いてしまったかな、と気になったのですが、あくまでこれはどこまでも"分からん"ことなんです。
ただ、この時次のようなことが私の頭の中に過っていたのは確かなことです。
エンライトさんは、確か永遠の虚無に消え去るという、究極?の非二元の有り様には、所謂真我とか魂、神というものも無いという旨のことを述べていたかと思うのですが、そこにはあらゆる相対次元が超えられているので、苦難というものも愛というものも無いそうです。
真我に関して、私は便宜的にそういう言葉を使ってしまいますが、それは本来神や魂というものがそうであるように、輪郭も境位も無く実体など分からないものなのです(少なくとも私には認められません)。
これはあくまで、そういう実体無きリアルなあるもの(これは...これこそは"ある"のですi)に出くわした時、「今まで自分と思われた自分は本当の自分ではなかったi」という実感によって導き出されるものなのです。
言うまでもなくそうした事態というものは、自分の意志、力によっては到底預かることの出来ないものです。恩寵としか言い様のないものです。
そしてそこには愛、無条件の愛としか言い様のないものがすべてを満たしています。それ無くして、そもそもそういう事態は起こり得ません。
その愛はこの世のどこにも見いだすことの出来ないもので、"愛し、愛される"という関係性も無く、無機質なものを連想させる法則性といったものを完全に超えています。故に無条件なものが実感されるのです。
そこにこの世の愛のように、憎しみや不幸に転じてしまうような相対的なものは認められないのです。
こういう消息は多くのスピ.メッセンジャーが伝えていることですが、"個は無い、全体しかない"といった、究極の非二元的有り様を想起させるような説き方は エンライトさんが言うように適切ではありません。
いたずらに重要なものを欠いた 浮いた空虚感を漂わせるばかりです。
そういう実感もあれば、そう感じている"私がある"のも実感されるのです。その真実性を訴えようとするあまり、理に走ってしまうことで、"OOしかない"という、ある非二元ならぬ分離感が生まれるようです。
これはこの消息をもたらしている、愛自体なるものから切り離されることから来ると思われます。
愛にあることから、究極のナントカの境地、至高のレベルといったものに意識が移ってしまうのでしょう。
私は自分がそのものによってしか導かれ得なかったので、そのものに依らざる、"より高みへの道"というものは考えることも、感じることも出来ませんi
愛自体なるものは、見えざる導きと言ってもいいのですが、もしこのもの無しにその道に赴くことになれば、私には想像し難いことですが、個も全体も、真我、魂、神そして愛も無い永遠の虚無に帰してしまう他無いのかもしれません。
私の想像では地獄とは、神的なものから完全に閉ざされた自我的な思いが作り出すヴァーチャルな世界ということなのですが、それは確定した有り様でないので、ある契機でそこから脱け出すことが出来、あるいはその有り様自体が解消されてしまう事もあり得るのです。
では思いというものが超えられた次元で、神的なものからの分離(くどいようですが想像出来ません)という様態は、どういうことになるのか?
それは神も愛も無い魂の永遠の死のような消息でしょうか? 言葉は適切でないかもしれませんが、私にはそのことに無限地獄といったものを想起されたのです。
その真相はおそらく誰からも語られないものでしょう。
エンライトさんは、究極の非二元世界に赴いたらしいですが、生身をもって戻ってきた訳だし(これ又私には考えられないことです)...
そして二元的現実世界に即したハートへの気付き、魂の願望というものを強調してメッセージを発信するようになった訳です。
おそらくは愛というものの大切さに気付かれたのかも分かりません。
まあ、あっちへ行ってしまった訳だし、"遺稿"から汲み取るしか、考えても分からないことですが...そういうものは確かに感じられます。
非二元の世界を知った人間はそうならざるを得ないのかも分かりません。