人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

表と裏の引き寄せ

2018-01-03 15:18:38 | 意識、照明
昨年の最大の私の"メッケもの"は、年末に神保町の中古レコード屋さんで買った、南米エクアドル出身のラテン.トリオ"ロス.エムバハドーレス(Trio Los Embajadores)"のLP盤でした。(似たような名のアーティストはペルーにもチリーにも居るが、これは正真正銘i ここ数年ずっと探していたものです。多くの読者には、全くちんぷんかんぷんな話で、ただの自己満足にすぎないことなのですが、このトリオの音楽は今フツーにユーチューブで、"A Unos Ojos"だとかの曲を視聴出来るi "このエもいわれぬ味わいi 伝えられないi どんなに伝えてもあなたには現前してこないi これは私だけの貴族的楽しみなのダi ふっ、ふっ、ふっ..." なんてセリフはもう、通じないのです。隠れていたものが顕わとなる、何ともオソロシイ時代になったものです)
私は神保町に着いた途端、ある予感が過ったのでした。
"もしかしたらあっこでメッカるかもしれない..." いわゆるコレクターの人なら一度ならずそういう経験があるでしょう。
あたかも手には入るように決まっていた ...予定調和のように、そうなってしまうことが ...
私には昔からこういう事はしょっちゅうあるのです。(今はあまり集めようという意欲は無くなってきてますが ...)
こういうのは、私はその関連の本は一度も読んだことありませんが、ひと頃流行った(今も?)引き寄せの法則とかで説明されるようですね。
そういう法則があるのかどうか分かりません。又当然のことながらそれに関した、アファメーションだとかのメソッドを駆使したこともありません。
だってね、"では、これから始めますi"みたいに構えたようなことせんでも手に入ることになってんですから(!)...
絶対的に言えることは、その求めているものに意識が向けられていなければ、そういうことにはならないということです。それが意識的になるということです。
といって、"意識を向けねば ..."、"意識的にならねば ..."なーんてことは、全くズレた話で、こういうことは意識が向いたからメシが食えるよな当たり前のことです。(法則など知らんでもメシは食える)
意識が向けられると、これは微妙な言い回しですが、フツーに言われるイメージとも違うような...ある漠然としたものでない、具体的(具体的に実感出来ることを言っています)な心像が現前します。
いや、逆にそれがあるから意識が向けられるのかもしれません。
これは言うまでもなく、物質的現実での話ですが、"いつもそんな風に意識の有り様のままに必要なものは手に入れている"、なんてこたあり得ない訳で、実際には半分、いやそれ以上に人生は思い通りに行かないものですね。
何でこういつも、私はひもじい思いをして生活しているのか?
よくよく考えてみれば、先のようにアリアリとした、リッチな生活の心像が顕わになってこないのです。
又、逆に恐れていたことが現実になるということはよくあることですね。...例えば急に便意を催してきて...とかね。
こういうことは、リアルに心像に浮かぶものです。
良い思いを発していれば、良いことを引き寄せる、とかその逆パターンとかあるらしいですが、思うこと以前の意識の有り様というのは、そんな簡単に行くことじゃありません。
そうなっていれば、この世はとっくの昔に地上天国です。
又相対的現実では何が良くて、悪いかということも単純に決められないものです。
トイレに一万円札が落ちてるかも分かりませんしね。
実は先のポッと浮かんだりする心像の奥には、そうした表面的な良し悪しとは関わらない、その出所とおぼしき言わば"原心像、原心象"のようなものがものが息づいているのが分かります。
これがもたげ出してくると、引き寄せるというより引き寄せられるという感じになります。
人生の悲喜こもごもの劇は、そこで脚本が描かれているのかも分かりません。
この脚本家は宇宙的全体のようなものじゃなく、個別に居る気がします。
そして、そこに描かれていないものは、心像に現れない、勝手に表へは出ない、事象として起きないのかも...
私はドタバタ演じさせられている身分なので分かりませんが ...
ただ、引き寄せられるものに委せていると、見えざる脚本家の気持ちも伝わってくるようです。


コメント
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