人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主に取って代わることは出来ない

2018-01-26 17:03:10 | 覚醒
「如来住とは、如来が主体者に安らうことであり、したがって主体者が如来に安らうことである。如来が主体者に一つに融けて、ただ如来のみに、言い換えれば、形なき命のみに全有される。それゆえに、一切の煩悩は、尽き果て、なすべきことはなされ...絶対空滅となる」
「しかしながら、それは同時に業熟体に根ざしているゆえに、主体者はきわめて危険な陥穽に臨んでいることも確かである。その陥穽とは、底なき業熟体から噴き上げてくる我執のために如来住たることが忘却され、単なる絶対空滅であるという意識である。それは、もはやそこから這い上がることの不可能なほどの危険きわまるものである」
(玉城康四郎「道元.下」春秋社刊)

「ただ悟りたいだけなら、それはエゴからのものであって魂からのものではない。自分自身を探し求めるとき、もはや悟りという言葉はどうでもよくなる」
(アジス.クリストフ「ヒューマン.ブッダー魂の探求者へー」アルテ刊)

私はこれまで何度となく、精神的目覚めというものは、仏教的には如来、キリスト教的には聖霊、私的には見えざる導師、何らかのガイダンス...というもの、その導きと共にあるものであることを言ってきました。
これはいくら強調しても、し過ぎることはないくらいです。
自覚意識の有る無しに関わらず、そうしたことに赴かそうとすること自体がそういうものなのです。
そうした形なき命が意識に芽生え、やがて内奥に浸透し、全心身にあたかも別の生き物のように住するようになるのです。
この内なる導きの主体とは端的に、親しく表せば"我が主"です。
目覚めの契機、時機、如何なる有り様で、といった魂の道のことは我が主に委ねられていると言ってもいいでしょう。
それは全くこちらの思議の及ばない消息なのです。
このチッポケな私は、決して魂の親である、我が主より先に勝手に独り歩きなど出来ません。
主に取って代わることは出来ないのです。
この主のお在さない、恩寵の導きの無い、意識の変容の事態というものの片鱗も私は何度も書いているように知っています。
そこには愛も平安も無く、ただ意識が奈落の底に消えて無くなってしまうような恐怖だけがあり、主が私に臨んだということは、そもそもがその苦境からの解放されるという契機だったのです。
スピ界に蔓延している、主の恩寵無くしてどうともならないにも関わらず、"完全覚醒"だとか、"究極の..."だとか、優越感をくすぐるきらびやかな言葉に幻惑されて、思われた自分をより高めようとする風潮を見るにつけ、私は表層にある思いを一先ず脇に置き、自分の魂が本当に求めているものは何か、自分の土台に導きの主体というものはあるのか、ということを問うてみる必要を痛切に感じています。
魂の求めるものと恩寵のハタラキというのは分けられないものですから。
自我意識の拡張に基づく、覚醒への企てはその発露を覆い、歪めてしまうものでしょう。
主が臨むこと、主の望みとは、自分の思い、計らいを超えて内なるものとつながることを求めずに止まないものが有るか、どうかということでしょう。
この事が蔑ろにされるならば、まさに主客転倒と言うべきでしょう...。

コメント
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