人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

忘れられた思想家.出水日出男②

2019-04-10 12:15:14 | 創作
出水日出男は、何故国家権力から危険視されたのか?
一つには、それはその"神ながらの道"などの思想があまりにも、普遍性に開かれていたからです。
それは単なる日本神道の域を超え、民族、宗教を超えた"普遍思想"の上に据えられていたのです。
彼は、大正、昭和初期当時の所謂国学者、神道学者らと異なり、それ以外の仏教、キリスト教、西欧哲学などにも積極的に研究をし続けました。それのみならず、実際に現地に赴いて様々な宗教家、思想家らと交流を図っていたのです。
この事実からも彼が当時の偏狭な国学者らとは一線を画していたことが分かります。
もっともその比較思想の論考は、大体が「それは"神ながらの道"に帰結されるのでありますi」に帰結されるものではありましたが...。
今少し、天野若彦著「忘れられた思想家.出水日出男」(可空書房刊)を手がかりにその"道"に踏み込んでみますと...「この道は、相対的な諸宗教、諸思想哲学の根底に息づいている、それらの因って来るところの謂わば大本なのであります」「その源泉へと直接つながっておるものが、この神ながらの道に他ならないのであります」
このことに関連して、諸宗教と区別される大きな特徴として「この道には開祖、教主というものは存在しないのであります。その導き手とおぼしきものは、あり得ても、それは現身を有してはおらないはずのものであります」「仏教で説かれるところの法身仏あるいは如来、基督教で説かれるところの聖霊なぞが、この見えざる導き手について言わるるものと解しても、間違ひではなからうと思われるるのであります」
このように彼の教説は、思想的にも、政治的にも権力をもって諸人を現人神に帰結させんとする、国家神道の在り方を揺らがせるものだったのです。
当時の国学者たちが、こぞって言及していたのは"国体"という実体のよく分からない概念についてでしたが、これに関わるものだったのかは、定かではありませんが、彼は"個全体"なるものについて語っています。
「個我の深部、大本に現体を有しない、個全体とも言うべきものがあります。それは個は個でありつつも、有機的全体と結ばれて居るもので、それは縦には永遠性、横には普遍性に連なるもので、これを表すに別に、"永遠的我"、"普遍的我"などとも申されませう」
「我々各々は、信ずる、信ぜないに関わらず、この個全体を根っこに持たぬものはいないのであります」
そして、このような瞠目すべき表現があります。「OOは、この見えざる個全体を象徴されておると解さるるのであります」
戦後まもなく、彼は、ある記者にこう語っています。「象徴はあくまで象徴であります。これを現実在あるものと取り違うことは、その周囲に転倒した、幻想に満ちた数々の様態を引き起こすという、ゆゆしき事態を招くことになるのであります」
「とは言え、象徴は決して軽んじることなど出来ようはずはありません。象徴は表徴であり、それはその全体としての我々の象りなのであります。そこに見える形で象られてあることは、我々全体に隠れたものがずっと生き続けており、それがある時節に表に顕わになることを象徴されておるのであります」
「日本国民の象徴は決して絶やしてはなりませんi それは日本の、否、世界人類の平和実現が絶たれることを意味するでありませう。それは、人間は皆その大本に神と直結されるものがあること、神統は霊統とつながり、霊統は血統とつながれるものを象徴されておるのであります」
ある外国人記者の「率直に伺いますが、多くの西欧人がイエス.キリストを信仰しているように、あなたもテンノウ.エンペラーを信仰しているのですか?」という質問に対して、突然声を荒らげてこう言い放ちました。
「君イ、天皇はエンペラーではないよi もっと勉強したまえi 天皇は王でも皇帝でもないのだ。私はキリストだろうと、アミダーバー(これはこの記者にはピンと来なかったようです)だろうと、私の内なるものと切り離されていない"神人"を信ずるのみだ。それはもはや信仰とは言えない、絶対信であるi」
これは、温厚な人柄の彼が別人のように、激する一面を見せた瞬間でした。やはり彼にはダブル.イメージが付きまとうようです。(続く)




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