あなたは悟りたいと思いますか?
精神的目覚め、エンライトメントに与りたいですか?
私は、こうしてブログを書いているうち、どうでもよくなってしまいました。
といっても、"そんなの無くてもいい"、と言っている訳じゃありません。
何度も言っているようにそれは、"神的なものと共にある"ことから切り離されないことだからです。
ですから、そのことが無ければ、全くどうでもいいということです。
もっと言えば、そのことを蔑ろにしたならば、私の"重度の病"は永遠に克服出来ないことになっていたでしょう。
進歩した、霊的に進化した人間でありたい自分、より高い悟りの境地にありたい自分...この優越意識という病を克服出来なかったでしょう。否、まだ克服出来たなどとは言えません。ただ、そのガンジガラメ状態から離れられる突破口は見い出している、ということです。
このブログを始めた当初は、とにかくその口を求めてもがいていたものです。
"ぶっ飛んだ体験すりゃ、いいってもんじゃないですよi"...何てことを言ってみたりもします。
しかし、そこには"一時の体験に酔いしれるのは、泡沫みたいなもので、もっと高い、深い境地てーのは、いつも悟った状態にあることなんですよ~"と言いたい自分が見え隠れしている...そうなってるであろう自分を演じようとしていたのです。
そうですね、ちょっとした非二元カブレだったのです。
"そこでは神とか聖霊とかガイダンスなど、自分以外の何かを想定するのは、二元的見地なので..."なーんてこと考えたりしてバッカじゃなかろーかi
もし、私が度々言い表している、神的なもの、現臨というものにない悟り、覚醒というもの、そこから切り離され、一人歩きしたそうしたものは、一体どういうものになるでしょうか?
修行系の人には、そういう傾向が見受けられるものですが...。
そういう道を究めたことなど無いので、何とも言えませんが、その片鱗らしきものは経験しています。
"すべてが虚無のうちに消え去って行く..."これはそう感じている、意識している自分ごとが消えそうになる、という感じを言っているのです。
そこには如何なる幸福も、愛も、平安もありません。そんなものを求めている人間の気が知れませんi
それでも、あなたは悟りたいと思いますか?
いや、多くの人は、"悟ってエラくなりたい"ムキは別として、悟りというものに、幸福、愛、平安というものを求めているのではありませんか? それは人間としてこの世に生まれたものとして極めて当たり前な、自然な要求です。
諸々の教説のことは置いといて、背伸びや偽りのない自分自身に聞いてみて下さい。
それらは、ここに生きている、ということ自体のうちにある...それはそう在らしめているもの抜きにしてはあり得ない...そして、そのものから離れた悟りというものは無い...そのものにあるということなのであって、優劣というものは本来無い...
こうしたことは、この自然(じねん)に赴くということを意識してみれば自ずと示されることでしょう。
究極の悟りの道のようなことは、頭で思い描いているだけで、"ここには示されていない"のです。(示されることは私の病のことばかり...)
これはこうして自然に筆が、否、指が赴くままに書かされたことで気付かされたことです。
もう、書くことが祈りみたいに感じている次第なのです。
精神的目覚め、エンライトメントに与りたいですか?
私は、こうしてブログを書いているうち、どうでもよくなってしまいました。
といっても、"そんなの無くてもいい"、と言っている訳じゃありません。
何度も言っているようにそれは、"神的なものと共にある"ことから切り離されないことだからです。
ですから、そのことが無ければ、全くどうでもいいということです。
もっと言えば、そのことを蔑ろにしたならば、私の"重度の病"は永遠に克服出来ないことになっていたでしょう。
進歩した、霊的に進化した人間でありたい自分、より高い悟りの境地にありたい自分...この優越意識という病を克服出来なかったでしょう。否、まだ克服出来たなどとは言えません。ただ、そのガンジガラメ状態から離れられる突破口は見い出している、ということです。
このブログを始めた当初は、とにかくその口を求めてもがいていたものです。
"ぶっ飛んだ体験すりゃ、いいってもんじゃないですよi"...何てことを言ってみたりもします。
しかし、そこには"一時の体験に酔いしれるのは、泡沫みたいなもので、もっと高い、深い境地てーのは、いつも悟った状態にあることなんですよ~"と言いたい自分が見え隠れしている...そうなってるであろう自分を演じようとしていたのです。
そうですね、ちょっとした非二元カブレだったのです。
"そこでは神とか聖霊とかガイダンスなど、自分以外の何かを想定するのは、二元的見地なので..."なーんてこと考えたりしてバッカじゃなかろーかi
もし、私が度々言い表している、神的なもの、現臨というものにない悟り、覚醒というもの、そこから切り離され、一人歩きしたそうしたものは、一体どういうものになるでしょうか?
修行系の人には、そういう傾向が見受けられるものですが...。
そういう道を究めたことなど無いので、何とも言えませんが、その片鱗らしきものは経験しています。
"すべてが虚無のうちに消え去って行く..."これはそう感じている、意識している自分ごとが消えそうになる、という感じを言っているのです。
そこには如何なる幸福も、愛も、平安もありません。そんなものを求めている人間の気が知れませんi
それでも、あなたは悟りたいと思いますか?
いや、多くの人は、"悟ってエラくなりたい"ムキは別として、悟りというものに、幸福、愛、平安というものを求めているのではありませんか? それは人間としてこの世に生まれたものとして極めて当たり前な、自然な要求です。
諸々の教説のことは置いといて、背伸びや偽りのない自分自身に聞いてみて下さい。
それらは、ここに生きている、ということ自体のうちにある...それはそう在らしめているもの抜きにしてはあり得ない...そして、そのものから離れた悟りというものは無い...そのものにあるということなのであって、優劣というものは本来無い...
こうしたことは、この自然(じねん)に赴くということを意識してみれば自ずと示されることでしょう。
究極の悟りの道のようなことは、頭で思い描いているだけで、"ここには示されていない"のです。(示されることは私の病のことばかり...)
これはこうして自然に筆が、否、指が赴くままに書かされたことで気付かされたことです。
もう、書くことが祈りみたいに感じている次第なのです。