人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自分の道を見極める

2019-04-16 12:11:34 | 求道、探究
度々言っているように私は、ほとんど特定の瞑想法とかメソッドなどに依拠してこなかったのです。
そういうものを覚えようという気すら起きませんでした。
だからと言って、それらを頭から否定するつもりはありません。
否定しているようなことを書いていても、それはあくまで自分の限られた経験に基づいて言っていることなので、すべての人に当てはまるとは限らないのです。
例えば、精神的目覚めとか神的なものと一つになるようなことがあったとして、それはその瞑想法、メソッド自体に依るのではなく、意識が何かの契機にそっちに向かわされ、つながったことや、向こうからのハタラキかけに依るのではないか、と言ったりするのは、そういうことなのです。
又、寡聞にしてあまりそういう方法自体に因ってそうなった、という話を聞かないということもあります。
しかしながら、中には然るべき方法に則って、そういうことに導かれた人も居るかも分かりません。これは私がそういう道を歩んでこなかったから分からないことなのです。
ただ、どういう道を歩もうと、根本的には自分を超えたものの成さしむるものである、という感じは捨て切ることは出来ませんが...
そして当然のことながら、世には自力修行というか、瞑想法などに則って歩むことに赴く者も居るのです。
これは縁に因ると言ったらそれまででしょうが、この自分が何に赴いているのか、ということを知ることは極めて重要なことと言わねばなりません。
こんな当たり前のことが、案外蔑ろにされているのがしばしば見受けられるのです。
先の例のことは、やる人はやるだろうし、やらない人はやらないだろう、というだけのことです。そこに"こうでなければ、そうならないi"ということは多分無いでしょう。
付け加えれば、"何もしなくてもいい"、もしくは"何も無くてもいい"ということも多分無いでしょう。意識が向かう、赴く何かはあるのです。それが縁というものか...
人間は自然に赴かないことには、どうしたって赴かないもの...そうしてるってことは、極めて不自然なことです。
これほど人生において無駄なこと、難行苦行というものはありません。苦行に自然に赴く人はさぞかし、それも楽行ともなろう...そこには苦しみの向こうにあるものに意識が向いているのでしょう。
そして、自分にホントにその気も無いのに、同じところをグルグル回り続けているヒマ人も居るものです。
そっちに赴かない、ということは端的に"自分に向いていない"ということです。それで意識がそっちに向く訳がありません。
こういう事情も汲まず、宗教、スピ界隈には"こうすれば必ず悟ることが出来ます、悩みが解決されます"というような、そそる言葉が何と溢れていることでしょう。
その道がホントに自分に向いているのか見極めるのは簡単なことです。
自分の生の気持ちに誤魔化無しに向き合えばいいのです。
悟ることにしても、ただ、悟りたいだけなのか、悟ってススんだ人間と認められたいだけなのか、それともある名状し難く惹き付けられるものがあるのか、どうか...本当に自分にその気があるのか、どうか...本当にその気があれば、自ずと意識が向けられます。あなたはもうそっちに惹き付けられているハズです。
理屈でなしに...

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