「自由は絶対個己の世界にのみその真義を見出だし得るのである」(鈴木大拙)
私は現代のこの日本に生を享けたことに、本当に、ホントーに感謝を覚えずにおれません。
戦前、戦中の軍国主義の下であったら...北朝など思想統制下の国であったらなどと想像すると...いや想像することすら出来ない、許されないかもしれないのです。
こうして好き勝手なことを書いていられるなど...全く"日本ハ神国ナリ"と思えてきそうじゃありませんか?
こういうことは取りも直さず、私という個、自己というものが与えられているからということに尽きるでありましょう。
自己があるということは、自ずと、自らに因っている、自由があることに他なりません。
これを考えるに、今の悟り系スピなどで軽々しく"個というものは無いんですよi"、なんて宣うことなどバチ当たりにも程があるとは思えてきませんか?
そういうことも、そう感じる、そう言える個己あってのものであるハズなのです。
"個己がない、全体しかない"ということは、全体的なものになされるがままになる、ということにつながってしまうのですよ。
全く自由の無い世界など想像出来るでしょうか?
こう言ったからといって、私にもこういう教説が生まれた背景というものは分かっているつもりです。
何しろ私は戦後の生まれだからです。戦争を知らない世代なのですから...
世に個人主義なんて言葉がありますが、そんなものが本当に有るのかどうかはともかく、主我意識というものが当たり前のように浸透している時代に生きてきたのです。
個己が与えられていることは、自由であるということを言いました。しかし、純粋な意味での自己、個己と主我意識、エゴというものは違います。主我に囚われていることは、もうその言葉通り、自由では無いということです。
しかし...この主我の支配する世界にあっては、自ら不自由に陥るという、自由が与えられているのですi
現代的意味で、この様態を端的に表しているものは、引きこもり、うつ病などでしょう。
全体主義社会では、そういうことになる自由すらロクに与えられないのではないですか?
"強制労働か、さもなければ永久に寝ていろi"という発令があるかもしれないのです。
悟り系スピが執拗に"個はない"などと説き伏せているのは、それだけ我々は主我意識の呪縛に苦しめられてきた、ということを物語っているのでしょう。
主我を通り越して個己そのものにまで言い及んでしまうのは、それだけ事態は深刻なのかも分かりません。
しかし、これが無くなればすべて無くなる...永遠の虚無のみです。
"個はない、全体しかない"訳などありません。個がなければ、全体(と言わんよりは、普遍なるもの)もあるハズなどないのです。
これは、我々は本当の、本来の個己というものがまだ明らかにされていなかったということでしょう。
それが無ければ、何一つ明らかにはされないでしょう。
しかし、何人でも、春の陽光を浴びながら、その一端は感じられてくるに違いないi
"私がここに生きている、生かされているのは、何て自由なんだi"
私は現代のこの日本に生を享けたことに、本当に、ホントーに感謝を覚えずにおれません。
戦前、戦中の軍国主義の下であったら...北朝など思想統制下の国であったらなどと想像すると...いや想像することすら出来ない、許されないかもしれないのです。
こうして好き勝手なことを書いていられるなど...全く"日本ハ神国ナリ"と思えてきそうじゃありませんか?
こういうことは取りも直さず、私という個、自己というものが与えられているからということに尽きるでありましょう。
自己があるということは、自ずと、自らに因っている、自由があることに他なりません。
これを考えるに、今の悟り系スピなどで軽々しく"個というものは無いんですよi"、なんて宣うことなどバチ当たりにも程があるとは思えてきませんか?
そういうことも、そう感じる、そう言える個己あってのものであるハズなのです。
"個己がない、全体しかない"ということは、全体的なものになされるがままになる、ということにつながってしまうのですよ。
全く自由の無い世界など想像出来るでしょうか?
こう言ったからといって、私にもこういう教説が生まれた背景というものは分かっているつもりです。
何しろ私は戦後の生まれだからです。戦争を知らない世代なのですから...
世に個人主義なんて言葉がありますが、そんなものが本当に有るのかどうかはともかく、主我意識というものが当たり前のように浸透している時代に生きてきたのです。
個己が与えられていることは、自由であるということを言いました。しかし、純粋な意味での自己、個己と主我意識、エゴというものは違います。主我に囚われていることは、もうその言葉通り、自由では無いということです。
しかし...この主我の支配する世界にあっては、自ら不自由に陥るという、自由が与えられているのですi
現代的意味で、この様態を端的に表しているものは、引きこもり、うつ病などでしょう。
全体主義社会では、そういうことになる自由すらロクに与えられないのではないですか?
"強制労働か、さもなければ永久に寝ていろi"という発令があるかもしれないのです。
悟り系スピが執拗に"個はない"などと説き伏せているのは、それだけ我々は主我意識の呪縛に苦しめられてきた、ということを物語っているのでしょう。
主我を通り越して個己そのものにまで言い及んでしまうのは、それだけ事態は深刻なのかも分かりません。
しかし、これが無くなればすべて無くなる...永遠の虚無のみです。
"個はない、全体しかない"訳などありません。個がなければ、全体(と言わんよりは、普遍なるもの)もあるハズなどないのです。
これは、我々は本当の、本来の個己というものがまだ明らかにされていなかったということでしょう。
それが無ければ、何一つ明らかにはされないでしょう。
しかし、何人でも、春の陽光を浴びながら、その一端は感じられてくるに違いないi
"私がここに生きている、生かされているのは、何て自由なんだi"