人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

直接性ということ

2020-06-06 10:01:07 | スピリチュアル
ノンデュリアリティでは直接性ということを言っています。
その分離が無いということは、人為的な信仰、修行といったものを介さないことです。
宗教では神と言ったりしてますが、その神との直接性を説いているのかと思いきや、それすらもパスしてしまうらしいです。
しかし、それはどうも単なる謳い文句になり勝ちなようで、そういう教え、それを説いている教師とその追従者の存在そのものからして、二元性を表していると言えるでしょう。
もっとも看板などが第一義になる訳でもないし、楽しけりゃ何でも構わないと思うのですが...
そもそもこの直接性ということ、信仰、修行、段階的な道を通らないということは、どういうことを、それで何が間接的というか、従来の宗教的な道と違う点を示そうとしているのでしょうか?
これが、あまり分かっているようでそうでないようなのです。メンドくさい手順が省けるから? ズボラな私向きかもしれませんが、私はそれだけで惹きつけられたりしませんよi...と、もう私はその大きな理由を述べちゃっているのですi...ぐだぐだとした説明もパスなのですi
"理由"も、理屈もなく、惹き付けられてしまう...これに尽きてしまう...。あえて言えば愛、平安、リアリティがすでにそこにあるからです。
これは、何々を信仰したり、行じたりする以前に、そういうものを感じられる人なら自ずと分かることでしょう。
ラマナ.マハルシが「幸福であることは人間の本来性である」と言っていることが実に頷けます。
信仰しなければ、修行しなければならないと思い込んでいる人は、本当にその本来的幸福に与れるのなら、それが第一義のものなら、二義的なものはもう手に付かなくなることが分からないのです。これは、努力とか達成とは無縁なのです。

40年くらい前、勿論その頃は、ノンデュリアリティのことなど知りませんでしたが、確か小池先生の書物を読んでいて、それだけでもう歓喜に満たされてしまい、夜中に訳もなく街中へと飛び出たりしたことがあったのですが、その頃からこの直接性の消息は知らされていたのです。
ただ、まだその頃は意識的になっておらず、修行の道には赴くことはなかったものの、もっと信仰を深めなければならない、ということなどに囚われていたのです。
直接的な道は、近年に始まった訳でなく、古来インドは勿論、西欧でもあらゆる宗教的な道で伝えられてきたものです。
私の場合は主として、手島先生、小池先生の原始福音の道から受けたと思います。
"あれはキリスト教だから違う"、という向きもあるかも分かりませんが、一元だろうと二元だろうと、神が説かれようと、説かれまいと相対的な有り様を超えて直ちに愛、平安とつながるものを第一義にしたものにこそ、その直接性は求められるものでしょう。


コメント
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