「精神とは、実存的な主体の中に顕れ、実存的な主体の力によって顕現する現実である」
(ベルジャーエフ)
"シャカは霊界の何番目のレベル..."だとか、誰某はシャカの生まれ変わり..."だとか...もう、こんな言い回しのスピなどアタシャ、全く受け付けなくなりました。
もっとも、そういう話をマトモに信じ込んだことなど一度もなく、何かのついでに読んだり、聞いたりしたことはけっこうありましたが、今は一寸生理的にムリです。
そんなところにスピリチュアリティなど全く感じられません。これはリアリティと言い換えてもいいくらいなのですが...
こういうことをさも真実であるかのように語る...これほどウソっぽいものはありません。
それでしたら、ある種の幻想文学(最近読んだものでは、フランス幻想文学の祖と言われる「シャルル.ノディエ」とか、「久生十蘭」のいずれも短編)の方にリアリティを感じさせられることしばしばです。
それらは、現実に即した筆致というのが一つのミソではあると思いますが、その現実にありそうで、無いようなことに出くわす主人公に感情移入することで、こちらの内面に隠れて、息づいているものが揺すぶられるためでしょう。
しかし、大概の文学愛好家は、それらのことは、あくまでフィクションなのであり、よもや自分自身が例えば異界(人生の裏側?)に足を踏み入れるようなことになろうとは夢にも思わないものなのですね。
実にあることに"高じてしまう"、"一線を超えてしまう"か否か、ということは、人生の大きな分岐点に立たされることと言っても過言ではないのです。(上記の作家たちは、プロフィールが一寸謎めいていて、どうもただの作家の域を超えたようなところがあります)
こう考えると何がフィクションで、ノンフィクションかが分からなくなり、又躍起になって事実の究明などに固執する意味も分からなくなってきます。
フツーに考えられている、この場合の事実というのは、客観的事実のことですが、それが証明されたからといって、それが即"私自身の事実、真実"につながるとは限りません。
ましてや、スピ的なホントっぽく語られる話など...私自身の真実とちっともつながらないので、全くどうでもよく、ウソっぽいのです。
これに反して、私の内なるものが揺すぶられ、顕わにされる、ということはリアリティを呼び覚まさずにおれません。
スピリチュアルのリアリティは、自己実存と離れては無いi...実に思われた私の内に思いを超えた、実存的な主体者がお在す、ということほど、"私自身の真実"を映し出すものは無いのではないでしょうか?
その真実はその御方自らが物語るでしょう。
その物語はフィクション、ノンフィクションを超えているのです...。
(ベルジャーエフ)
"シャカは霊界の何番目のレベル..."だとか、誰某はシャカの生まれ変わり..."だとか...もう、こんな言い回しのスピなどアタシャ、全く受け付けなくなりました。
もっとも、そういう話をマトモに信じ込んだことなど一度もなく、何かのついでに読んだり、聞いたりしたことはけっこうありましたが、今は一寸生理的にムリです。
そんなところにスピリチュアリティなど全く感じられません。これはリアリティと言い換えてもいいくらいなのですが...
こういうことをさも真実であるかのように語る...これほどウソっぽいものはありません。
それでしたら、ある種の幻想文学(最近読んだものでは、フランス幻想文学の祖と言われる「シャルル.ノディエ」とか、「久生十蘭」のいずれも短編)の方にリアリティを感じさせられることしばしばです。
それらは、現実に即した筆致というのが一つのミソではあると思いますが、その現実にありそうで、無いようなことに出くわす主人公に感情移入することで、こちらの内面に隠れて、息づいているものが揺すぶられるためでしょう。
しかし、大概の文学愛好家は、それらのことは、あくまでフィクションなのであり、よもや自分自身が例えば異界(人生の裏側?)に足を踏み入れるようなことになろうとは夢にも思わないものなのですね。
実にあることに"高じてしまう"、"一線を超えてしまう"か否か、ということは、人生の大きな分岐点に立たされることと言っても過言ではないのです。(上記の作家たちは、プロフィールが一寸謎めいていて、どうもただの作家の域を超えたようなところがあります)
こう考えると何がフィクションで、ノンフィクションかが分からなくなり、又躍起になって事実の究明などに固執する意味も分からなくなってきます。
フツーに考えられている、この場合の事実というのは、客観的事実のことですが、それが証明されたからといって、それが即"私自身の事実、真実"につながるとは限りません。
ましてや、スピ的なホントっぽく語られる話など...私自身の真実とちっともつながらないので、全くどうでもよく、ウソっぽいのです。
これに反して、私の内なるものが揺すぶられ、顕わにされる、ということはリアリティを呼び覚まさずにおれません。
スピリチュアルのリアリティは、自己実存と離れては無いi...実に思われた私の内に思いを超えた、実存的な主体者がお在す、ということほど、"私自身の真実"を映し出すものは無いのではないでしょうか?
その真実はその御方自らが物語るでしょう。
その物語はフィクション、ノンフィクションを超えているのです...。