出口王仁三郎師は、その信奉者のみならず、一部からは今でも救世主と目されているようです。
自身でも、あたかも自分が救世主、再臨のキリストであるかのように思わせるような発言をしているのです。
例えば、「霊界物語」の64巻(上)に「メシア再臨の先駆として神の命によりはるばる出て来た、ルートバハー(大本)の教主ウヅンバラ.チャンダー(瑞の御霊出口聖師)...」「メシアといふ人格者は、目下高砂島の下津岩根に諸種の準備を整えてをられます。そして、その名はウヅンバラ.チャンダーと謂って、実に慈悲博愛の権化とも称すべき神格者です」と、教主のその又先駆のルートバハーの宣伝師ブラバーサをして語らせているのです。
私は最初この箇所を読んだ時は、口述者は本人な訳だし、実際にそのモデルが居たとされる、このブラバーサこそが聖師自身のことを指しているのかな?と感じたものでしたが、何分「物語」である故、取り方は各自の自由なのでしょう。
この一方で、聖師は「信天翁(アホウドリ)」という歌で、こんな言葉を言い残しており、色々論議を読んでいるようです。
「...今、大本にあらはれし 変性女子はにせものだ 誠の女子があらはれて
やがて尻尾も見えるだろ ...美濃か尾張の国の中 変性女子が分かりたら
もう大本もダメだろう...」(抄)
ここできっぱりと自分が救世主格、変性女子であることを否定しているのです。ただその後、実際にこれを鵜呑みにした本物気取りの者が出現したのか、続編のような形でこう歌っています。
「この歌を各自のことに誤解して 罪を重ねる曲人もあり」
この大本の周辺だけでも、"我こそは真の神柱、救世主なり"、を自称する人物は沢山居ました。それは、そこから独立して一派をなした教祖たちの存在などにも伺えることでしょう。
上記巻にも登場する「霊界物語」では敵役ながら主役を食ってしまうほどの活躍をする高姫は、出口直開祖の三女で、聖師に敵対した「福島久子」がモデルとされますが、その登場以来ずっと、その自分が真の神柱であること、又そのことを証する必須アイテム(?)である、"神宝"を奪取することに執着し続けているのです。
ここで、聖師が言いたかったことは、"肉体の、思われた自分がそのまま神柱、救世主ではない"、ということではなかったでしょうか?
本物の救世主は、見えない存在であり、肉身の存在はその存在を知らせる先駆であり、あくまでその代行人なのです。聖師はどこかで"自分はスサノオノミコトの地上代行人だ"、と言っているのです。
上掲の歌で"みのおわり"という箇所は、"身の終わり"にも通じるでしょう。肉体に囚われた思い、"自分が"という思いを終わりにしないと、見えない神柱としてのハタラキは現れないのでしょう。
このことについて、世界的に知られたメシア、キリスト.イエスはどうだったでしょう。彼は"自分は何もなし得ない、父のみこころのままになすのである"、と言っていたではありませんか? そしてその肉体は十字架にかかられたのですi
"肉体のまま、肉の思いのままでありながら、救世主を自称するのは、ニセモノである"、"霊なる救世主を指し示すものがホンモノで、その存在は...無である"
聖師は、この"善と悪の鏡"を映し出すこと、型示しに徹しておられたのでしょう。
自身でも、あたかも自分が救世主、再臨のキリストであるかのように思わせるような発言をしているのです。
例えば、「霊界物語」の64巻(上)に「メシア再臨の先駆として神の命によりはるばる出て来た、ルートバハー(大本)の教主ウヅンバラ.チャンダー(瑞の御霊出口聖師)...」「メシアといふ人格者は、目下高砂島の下津岩根に諸種の準備を整えてをられます。そして、その名はウヅンバラ.チャンダーと謂って、実に慈悲博愛の権化とも称すべき神格者です」と、教主のその又先駆のルートバハーの宣伝師ブラバーサをして語らせているのです。
私は最初この箇所を読んだ時は、口述者は本人な訳だし、実際にそのモデルが居たとされる、このブラバーサこそが聖師自身のことを指しているのかな?と感じたものでしたが、何分「物語」である故、取り方は各自の自由なのでしょう。
この一方で、聖師は「信天翁(アホウドリ)」という歌で、こんな言葉を言い残しており、色々論議を読んでいるようです。
「...今、大本にあらはれし 変性女子はにせものだ 誠の女子があらはれて
やがて尻尾も見えるだろ ...美濃か尾張の国の中 変性女子が分かりたら
もう大本もダメだろう...」(抄)
ここできっぱりと自分が救世主格、変性女子であることを否定しているのです。ただその後、実際にこれを鵜呑みにした本物気取りの者が出現したのか、続編のような形でこう歌っています。
「この歌を各自のことに誤解して 罪を重ねる曲人もあり」
この大本の周辺だけでも、"我こそは真の神柱、救世主なり"、を自称する人物は沢山居ました。それは、そこから独立して一派をなした教祖たちの存在などにも伺えることでしょう。
上記巻にも登場する「霊界物語」では敵役ながら主役を食ってしまうほどの活躍をする高姫は、出口直開祖の三女で、聖師に敵対した「福島久子」がモデルとされますが、その登場以来ずっと、その自分が真の神柱であること、又そのことを証する必須アイテム(?)である、"神宝"を奪取することに執着し続けているのです。
ここで、聖師が言いたかったことは、"肉体の、思われた自分がそのまま神柱、救世主ではない"、ということではなかったでしょうか?
本物の救世主は、見えない存在であり、肉身の存在はその存在を知らせる先駆であり、あくまでその代行人なのです。聖師はどこかで"自分はスサノオノミコトの地上代行人だ"、と言っているのです。
上掲の歌で"みのおわり"という箇所は、"身の終わり"にも通じるでしょう。肉体に囚われた思い、"自分が"という思いを終わりにしないと、見えない神柱としてのハタラキは現れないのでしょう。
このことについて、世界的に知られたメシア、キリスト.イエスはどうだったでしょう。彼は"自分は何もなし得ない、父のみこころのままになすのである"、と言っていたではありませんか? そしてその肉体は十字架にかかられたのですi
"肉体のまま、肉の思いのままでありながら、救世主を自称するのは、ニセモノである"、"霊なる救世主を指し示すものがホンモノで、その存在は...無である"
聖師は、この"善と悪の鏡"を映し出すこと、型示しに徹しておられたのでしょう。