人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の試練と学び

2020-06-19 09:58:00 | 求道、探究
世の中は生きづらい...
確かに。問題だらけですもんね。
でも一番の問題は、その問題を自分が作り出していたりすることにあるんじゃないでしょうか?
"イヤだ、ツライ、シンドイ..だけど、ここはガマン、耐えるっきゃないi、ガンバローi"
そりゃあ、人生にはやりたくないけど、ガマンしてガンバラなきゃならないこともあるでしょう。仕方ないからやってるってのもあるでしょうが...
"これは人生の試練なんだ、ここを通して学ばされてるんだ..."、なーんてこと思ったりして...でなきゃ、ただの惰性、習慣だったりして...
そんでもって...ストレス抱えて、心身とも疲れてきて、そんなこんなの繰り返し...。
自分自身のことを考えてみても、どうしてあの時、わざわざツライ道を選んだりしたのかよく分からないことがあるのです。
何だか、そうしなきゃいけないような気分になってきて...きっとそれは"世の中という神"の声なんでしょう。
しかし、もしそこに"そっちに赴けば幸福がある"、ということが示されていても、自分が勝手に試練とか学びとか思っている道を通らなければならないでしょうか?
幸福であること、愛、平安と共にあること...そういうものは一時の感情のように、あるいは何か抽象的な観念のように思っていたら...それは表われては消えるものとしか感じないでしょう。
だとしたら、それは本当に幸福、愛、平安の内にあるとは言えません。そういう思いの内にあるということです。
もし、本当にそのものと共にあるのなら選択の余地などありません。自ずとそっちに赴かされるだろうから...
それは一時の感情の発出でもなければ、抽象的なものでもありません。具体的に感じられるものなのです。
"自ずと"ということは、自然から、本来性からのものということ...それは自分が愛している人やモノを通して、それらを媒体して感じられるだけでなく、自分に本来備えられているものなのです。
そう考えると、どうして人間は問題ばかり抱えていて、幸福になれないのかが不思議でしょうがありません。
宗教などで神を信じているのに、一向に幸福になれず、ツラく、シンドイ思いを抱えてしまう人も居るでしょう。
本当に神(的なもの)に意識が向けられて、そうなってると言うのは、どっかおかしいことです。
自分の、他所からもたらされた信仰、信念、観念、習慣的思い...それが本当に自分自身に直結した神(的なもの)を見えなくさせているのでしょう。
私がつい神のことを書いてしまうのは、それが思いを超えたものであり、その導きを通して、このような気付きを与えられたからに他ならないからです。
それもツライ、シンドイ思いを通らされたことあってのものには違いないでしょうけど...そんな時でも、その思いの向こうに幸福がある、ということは感じられていたのです。ずっとそのものが表層の奥に息づいていたということが...このことに本当に気付けるか、どうかということこそ本当の人生の試練と学びだと思います。
まあ、そう感じるのも歳をとったということなのでしょう。
コメント
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