人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の教師と見えざる導師⑦

2020-06-10 12:10:37 | 人生の教師
少し前、"内なる導き"という記事で私は、内なる、見えざる導きへとシフトすることは、見える導師、教師たちとの関わりが終わってしまうかのようなことを書きましたが、そんなことはありませんi 少なくとも私には...。
あれは、あくまで特定の教師への個人崇拝が終わる、ということを言っているのです。
いうまでもなく、教祖も教師も人間なのです。ただ、その形ある彼らは、形なき命の媒体、見える導師は見えざる導師の象徴であり、こちらの内なるものへと理解が深まるにつれ、彼らとの外的な関わりは変わってゆくのも自然の流れでしょう。
同時に彼らの、言葉として伝えられた教えを通して、言葉に言い表せない"響き"を感受させられるようになるものでしょう。
小池辰雄先生を例にすると、私は20年ほど前、先生創刊の「エン.クリスト」誌の記念号で、その集会からは遠ざかっていたにも関わらず、おこがましくも「小池先生から受けた恩恵は一生ものですi」などと書いたりしたのですが、その気持ちは今も変わりありません。
一寸思い上がった言い方になるかもしれませんが、私には細胞レベルで先生の教え(先生は、この言葉が嫌いで、教えなどと思ってないでしょうが...)が内部に染み透っているように感じているのです。
「"みたま"の恩恵を本当に受け取ってごらんよ。これはもう、居てもたっても居られないから。ありがたくて...」(小池先生晩年のガラテヤ書講話)
いや、もうそういう文字を読んでいるのか、こっちの中から出てくるのか...神、キリストと先生と私が渾然一体となっているように感じられてなりません。
これは、見えざる導師と見える導師と私が一つになっているということではありませんか? だからと言って、この思われた私がそうなるという訳じゃありません。「相対の奥に絶対の世界を頂いている、ということが大事なんだ」(同)という訳です。
こういうことは、私における他の教師についても言えることなのです。小池先生の信奉者が聞いたら不愉快に感じるかもしれませんが...
もし、それが本物の導師ならこのように導かれるのが普通でしょう。そうでなきゃおかしいでしょ?
いつまでも、"OO先生、OOの神様、ははあっ..."、"ああ、私は教えに背いちゃいました、罪を犯しました。許して下さいi"、なんてやってて何が楽しいんですかi
自分と対象と二つになっているのでなく、一如の関係にならないと、この根源からの歓喜は出てこないのです。
人生の教師という存在は、こちらがその指し示すものとつながらなければ生きてきません。
ただ奉っているだけなら彼らを死んだ偶像にしているのです。偶像崇拝に陥っている者の精神も枯渇してしまうです。
そして、こちらがそれにつながることによって、その見えざるつながりにおいて生き続けるのでしょう。だから一生ものなのです。
コメント
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