人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊と実存の洗礼

2022-12-05 10:06:51 | 回想
私はね、容易く他人の言葉などに迎合して、感化されることが無いのです。だから、ある宗教にハマったりな~んてことは...全然無かった訳でもありませんが...
生来、とても慎重な性格で、クール、ドライなところがあります。いやまてよ、手の平を返したようなこと言うようですが、影響を受けやすく、すぐ熱くなるところもありますねえ。
知らず知らずにそうなるということもあるようだし...そういうものはずっと心の奥に残っているようです。
前回の続きのようになりますが、精神的な道に目覚めた初期の頃から神道的なもの、キリスト教的なものの影響が大きかったのですが、M教団から離れて約半年後の昭和53年春、このことを象徴しているような、いやその後の私の歩みがそこに凝縮されているような一冊の本と出会いました。
それが以前「図書室」コーナーで取り上げたこともある、神戸の霊感ジャーナリスト(?)西村忠義さんの「人類の復活」という本です。
何しろ、この方はキリストの聖霊体験、丹波の元伊勢皇太神宮でもある種の神秘体験を持たれている方で、近代合理主義を具現している(?)ような、ジャーナリストにあっては異色の存在であり、又多くのそうした”霊がかり(語り)“とは違った、”実存的”知性を感じさせずにおれないような感性の持ち主でもあったのでした。
要するに、そこで神道的なもの、キリスト教的なもの、日本とユダヤの同調(同祖かどうかは知らない)的な精神だけでなく、先の私の生来からの相反する性格に呼応するかのような精神と出会ったということです。
この出会い無くして、その後キリスト教と接近することも、実存的なものに本格的に出会うことも無かっただろうと言えるでしょう。
この西村さんは、手島郁郎先生とサンダー.シングに深く傾倒しており、それから半年の間に目聡くも両者の、その中々入手の難しい本を手に入れていたのでした。
それが旧約と新約の区別も付かなかった私が初めて受けた、キリスト教の”洗礼“に他ならないのでした。といって、いわゆるキリスト教の洗礼式を受けた訳でも、又その意志も毛頭ありませんでしたが...
その一年前には、M教団で再三聞かされていた、”火の洗礼“なるものは、天変地異、カタストロフィと結び付けられ、否応なしに恐怖を呼び起こすものでしたが、それが今や魂の希求を呼び覚ますものへと自分の中で再編成されるに至ったのです!
“火とは霊の象徴である。神的な霊との交わり、聖霊によるバプテスマである!”
霊なるものとの関わりとは、いわゆる背後霊といった、自分に別在し、外からしか認識出来ない、そんな分裂的なものである訳がありません!...内なるもの、実存に関わるもの、魂に直結したものであるはずなのです。
その時から、私にはその響きからそれは私個人を超えて、あらゆる人たちか普遍的に通らざるを得ない、カタストロフィならぬ霊的新生へのプロセスとして認識されていたようでした。
コメント
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