人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りの意識状態

2022-12-18 09:38:45 | 祈りと瞑想
私は祈りによって導かれた!
毎度のことながら、このことは、どうしても強調せざるを得ません!
今だってそうです。こうして意識があちらに向けられると、即あの御方が臨んで来る!
それは、もう形の無い祈りと言ってもいいのですが、勿論最初は普通に祈っていました。
言葉に出さずとも、“み心のままにお導き下さい!”、という風に...
神か、仏か、守護神か?...何に祈っているのかも知らずに...
祈るということは、そんな詮索など必要の無いことです。
どの宗教の神に?、神は何次元か?、祈ったらどういう功徳があるのか?...こんなことに囚われ、かかずっているということは、既に祈るという意識状態からズレているということですよ!
自分の思いを超えたものに対し、何故自分の狭い思いから分かろうとするのだろうか?
分かってから祈るのだろうか?...これは、ずっと考えている自分が居座り続けているということで、最初から祈る気など無い心的態度と言う他ありません!
何十年祈り続けていようと、本筋から外れた“雑行“に流れるだけでしょう。
神仏、思いを超えたもののことは、何も分からないから祈るのです。
と言って、それはメクラ滅法ということではないですよ!
初めは、私も分かりませんでした。しかし、分からないままで、どうしても意識が、無意識に向いてしまうようでした(ヘンな言い方ですが)。”祈らされる“、ということがあるんだ!
どうしても、あちらに意識が向けられてしまうものがあるんです。
これが祈りの意識状態と言っていいでしょう。
親鸞上人は、この消息を本願というものと関連付けております。
玉城康四郎先生は、”裏側”から裏打ちされることだ、と言っています。
座禅や瞑想をやってようと同じことです。祈りと冥想は分けられない...いや、この裏打ちが無ければ何も始まらないではないか?!
こちらの信仰だとか、“行“だとかのことを超えて、神、如来が既に設えた乗り物に乗りさえすればいいのです。波や気流に乗るように...“どうやって、何に乗るのか?”...など考えている人間は永久に乗れないでしょう!
考えなくたって感じて来るのです。何か安らぐ、幸福が訪れる感じが!...
祈ろうと意思した時に、そういうものが流れて来るのを感じるのです。
乗るか、そるか?、って乗り物があったら乗るしかありません!
そうです!、それはある、もう、来ている!...何も無いところから始まっているんじゃないのです!
やっぱり、生まれる前からの本願から来るのでしょう!...

コメント
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