キリスト教などでは人格神ということをよく説いていますが、神に人格があるのかどうか本当のところは分かりません。
私は、“あの御方“とか“見えない導師“とか、如何にもそのような存在として呼んだりしますが、現実にある人格的な情動、心情のようなものを通して導かれるということはなく、多くの場合こちらの意識にある促しがもたらされることによるものなのです。
しかし、一度だけそのような人格的な情動のようなものを強烈に感じたことがありました。
それは40数年前、私がうっかりカルト教団に近づいてしまって、そこに入らされる一歩手前まで行った時のことです。
突如、何かゾクゾクさせる寒気のようなものを覚え、全身の血の気がサーッと引いたようになったのです。そして上の方から「一刻も早くここを立ち去れ!」というようなことを言葉ではない、何かの響きをもって伝えているのを感じました。
間一髪、そこから離れることが出来て、何かそれまで受けたことの無い、それでいてずっと昔に覚えていたような感情に襲われました。
“襲われる“という言い方は、全く自分を超えたところからの情動を受けている感じを表しているに他なりません。と同時に自分の中から出てくる感情でもあるのです。
この時の感覚というものは...とても言葉で言い表すことは困難なのですが...「お前は本当にバカだなあ!...お前が本当に求めているものはそんなものである訳が無いだろう?、お前の本当の願い、私の導きが何故分からないんだ、お前は!...」というような響きは伝わって来たのでした。
私は、どうも取り返しの付かないアヤマチを犯そうとしていたようなのでした。我が主にはこのカルトに迷うこととかのことがとても気障りなようです。
これはしかし、単純に間違い、罪を犯す、それに対する“おとがめ“のことを言っているのではありません!
そのような法、道徳律のようなもので捉えたら絶対に分かりません!
“とても暗く、空しいものが私の心を覆っている...そこには人生で真っ先に知らねばならない、それ無くして、そも人生そのものが立ちゆかなくなるものが感じられない...それは神的な愛!”
それが、暗く、空しい中にも仄かに見え隠れしているのでした!
それが覆われてしまった、感じられない世界とその光が差し込む世界の両方を見せられているようでした。
浄土系仏教で伝える二河白道の世界とは、こんなものなのでしょうか?
そこに、私が本当に求めて、願ってやまないものが示されるのです。
それはどこまでも、自分の外から義務や掟に従うことによるのではなく、自分の中から、心底から自然(じねん)。自明なものとして受け取らねばならないのです!
外からの強制によっては、人間実存はどうともならないのですから!...
我が主の律法は、失われた本来的愛の回復に向けられているのです。
失われたものは、取り戻すことが出来る!
あの時、遠い昔失ったような、又失おうとしていた宝を強烈に感じさせられたのでした。
私は、“あの御方“とか“見えない導師“とか、如何にもそのような存在として呼んだりしますが、現実にある人格的な情動、心情のようなものを通して導かれるということはなく、多くの場合こちらの意識にある促しがもたらされることによるものなのです。
しかし、一度だけそのような人格的な情動のようなものを強烈に感じたことがありました。
それは40数年前、私がうっかりカルト教団に近づいてしまって、そこに入らされる一歩手前まで行った時のことです。
突如、何かゾクゾクさせる寒気のようなものを覚え、全身の血の気がサーッと引いたようになったのです。そして上の方から「一刻も早くここを立ち去れ!」というようなことを言葉ではない、何かの響きをもって伝えているのを感じました。
間一髪、そこから離れることが出来て、何かそれまで受けたことの無い、それでいてずっと昔に覚えていたような感情に襲われました。
“襲われる“という言い方は、全く自分を超えたところからの情動を受けている感じを表しているに他なりません。と同時に自分の中から出てくる感情でもあるのです。
この時の感覚というものは...とても言葉で言い表すことは困難なのですが...「お前は本当にバカだなあ!...お前が本当に求めているものはそんなものである訳が無いだろう?、お前の本当の願い、私の導きが何故分からないんだ、お前は!...」というような響きは伝わって来たのでした。
私は、どうも取り返しの付かないアヤマチを犯そうとしていたようなのでした。我が主にはこのカルトに迷うこととかのことがとても気障りなようです。
これはしかし、単純に間違い、罪を犯す、それに対する“おとがめ“のことを言っているのではありません!
そのような法、道徳律のようなもので捉えたら絶対に分かりません!
“とても暗く、空しいものが私の心を覆っている...そこには人生で真っ先に知らねばならない、それ無くして、そも人生そのものが立ちゆかなくなるものが感じられない...それは神的な愛!”
それが、暗く、空しい中にも仄かに見え隠れしているのでした!
それが覆われてしまった、感じられない世界とその光が差し込む世界の両方を見せられているようでした。
浄土系仏教で伝える二河白道の世界とは、こんなものなのでしょうか?
そこに、私が本当に求めて、願ってやまないものが示されるのです。
それはどこまでも、自分の外から義務や掟に従うことによるのではなく、自分の中から、心底から自然(じねん)。自明なものとして受け取らねばならないのです!
外からの強制によっては、人間実存はどうともならないのですから!...
我が主の律法は、失われた本来的愛の回復に向けられているのです。
失われたものは、取り戻すことが出来る!
あの時、遠い昔失ったような、又失おうとしていた宝を強烈に感じさせられたのでした。