何度も書いていることですが、とても重要なことなので何度も触れずにおれません。
昭和54年初頭、私に現臨感覚が芽生える直前、突然思考が機能しなくなり、意識も飛んでしまいそうになる事態に見舞われたのです。
本山博さんも書かれているように、それはもう、ブラックホールか奈落の底みたいな世界に自分が吸い込まれ、消え去ってしまうような、気も狂わんばかりの恐怖なのです。
心身共に何か抵抗し得ない力によって圧迫され、立っていられなくなり、路上にへたり込んでしまいました。
別に我流でおかしな修行をやっていた訳じゃないですよ!
以前の記事では、それは無茶苦茶、必死になって祈っていた結果みたいなことを書いたかとも思いますが、これは全くの思い違いです!(何せ、思いが飛んでいる間のことなので、すべてカオスに包まれているようで正確に書き表せないのです)
事実は、そういうことになったからそうするしかなかった、必死になって祈るしかなかったのです!
その甲斐あってか、その場は窮地を脱することが出来たのです。しかし、日常意識に戻るにはしばし時間がかかりました。
現臨感覚というものを自覚したのは、それから数日後のことでしたが、このように、私が初めて思いを超えた世界に接したのは、危険と隣り合わせのものだったのです。
それから数年後の昭和58年夏、これ又突然初めて”神の手に捉えられて”、”人生の裏側”に踏み入れることになったのです。
いや、それは前記した時のことではないのか?、と思われるかもしれませんが、私は重要な意味でそういう自覚は持っていません!
なるほど、思考機能は失い、意識も遠のくというより、日常意識が退き、別の意識が顕わになった(これが裏側の扉が開くということ?)という感じになりましたが、やはり私のすべての力を奪う上よりの力も感じられるなど、前記したことと重なる部分も多いです。
しかし、決定的に違う、天と地ほどの開きがあるように感じられることがあります!
あの奈落の底に消えるような恐怖の念が無い!...いや、真逆とも言える、愛、安心が感じられる!
ゆだねられる!...いや思ったり、為そうとすることが絶たれている以上、ゆだねるしかない!
そう、そこには神的なものが臨んでいたのです!...すべてはそのものの主導で行われていたのです。
これを私は”見えない導き”と呼んでいるのですが、それは愛、安らぎ、リアリティそのものと言ってもいい...それにおのずと意識が向かう、ということなのです。
しかし、このことは、その前では私は一切無力であり、その奴隷のように操られるしかないのでしょうか?、これはこれで恐怖ではないか?
そんなこたあ、無い!...その神的な現臨、見えない導きは、思われたままの私を超えた、もっと大きな、もっと本来的な私自身を感じさせてやまないから!...だからおのずと意識が向いてしまうのです。
それは、どこまでも私の力を超えたものの為せる業なのです。
それを抜きにした、思われた自分からのみからの、如何なる自己を超える試みというものを考えることも、意識が向かうということもありません!
自分の限界を弁え、それを超えたものに与ること...それが祈りに他なりません。
あの奈落の底の恐怖を通して、祈りの重要性ということを学ばされたのでした...。
昭和54年初頭、私に現臨感覚が芽生える直前、突然思考が機能しなくなり、意識も飛んでしまいそうになる事態に見舞われたのです。
本山博さんも書かれているように、それはもう、ブラックホールか奈落の底みたいな世界に自分が吸い込まれ、消え去ってしまうような、気も狂わんばかりの恐怖なのです。
心身共に何か抵抗し得ない力によって圧迫され、立っていられなくなり、路上にへたり込んでしまいました。
別に我流でおかしな修行をやっていた訳じゃないですよ!
以前の記事では、それは無茶苦茶、必死になって祈っていた結果みたいなことを書いたかとも思いますが、これは全くの思い違いです!(何せ、思いが飛んでいる間のことなので、すべてカオスに包まれているようで正確に書き表せないのです)
事実は、そういうことになったからそうするしかなかった、必死になって祈るしかなかったのです!
その甲斐あってか、その場は窮地を脱することが出来たのです。しかし、日常意識に戻るにはしばし時間がかかりました。
現臨感覚というものを自覚したのは、それから数日後のことでしたが、このように、私が初めて思いを超えた世界に接したのは、危険と隣り合わせのものだったのです。
それから数年後の昭和58年夏、これ又突然初めて”神の手に捉えられて”、”人生の裏側”に踏み入れることになったのです。
いや、それは前記した時のことではないのか?、と思われるかもしれませんが、私は重要な意味でそういう自覚は持っていません!
なるほど、思考機能は失い、意識も遠のくというより、日常意識が退き、別の意識が顕わになった(これが裏側の扉が開くということ?)という感じになりましたが、やはり私のすべての力を奪う上よりの力も感じられるなど、前記したことと重なる部分も多いです。
しかし、決定的に違う、天と地ほどの開きがあるように感じられることがあります!
あの奈落の底に消えるような恐怖の念が無い!...いや、真逆とも言える、愛、安心が感じられる!
ゆだねられる!...いや思ったり、為そうとすることが絶たれている以上、ゆだねるしかない!
そう、そこには神的なものが臨んでいたのです!...すべてはそのものの主導で行われていたのです。
これを私は”見えない導き”と呼んでいるのですが、それは愛、安らぎ、リアリティそのものと言ってもいい...それにおのずと意識が向かう、ということなのです。
しかし、このことは、その前では私は一切無力であり、その奴隷のように操られるしかないのでしょうか?、これはこれで恐怖ではないか?
そんなこたあ、無い!...その神的な現臨、見えない導きは、思われたままの私を超えた、もっと大きな、もっと本来的な私自身を感じさせてやまないから!...だからおのずと意識が向いてしまうのです。
それは、どこまでも私の力を超えたものの為せる業なのです。
それを抜きにした、思われた自分からのみからの、如何なる自己を超える試みというものを考えることも、意識が向かうということもありません!
自分の限界を弁え、それを超えたものに与ること...それが祈りに他なりません。
あの奈落の底の恐怖を通して、祈りの重要性ということを学ばされたのでした...。