人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

コンクリートだらけのお社

2023-01-29 09:36:06 | 日本的霊性
昨年末、日本橋の水天宮にお参りしたのに続き、先日は芝にある”小さな“宮さん、芝大神宮にお参りしました。
どちらも久し振りなのでしたが、特に行事があった訳でもないのに、混雑も予想される正月の期間は避けていたにも関わらず、参拝の行列が出来ていたのに正直びっくりさせられました。
どちらも過去数度訪れたことがありますが、そういう光景に接した記憶はほとんどありません。
前者は、商店街を成している人気スポットだから不思議でも無さそうですが、後者の”小”神宮なんかは、近くの“大きな”増上寺の影にすっかり隠れている印象だったのですが...
生きづらい、世知辛い世相を反映しているのでしょうか?
しかし、どちらのお社もビジネス街の真っ只中にあるだけあって、その周りはコンクリートで固められてしまって、神社本来の、お土や古い巨木などの自然と通い合う空間というにはほど遠く、あれでは神気、霊気などが通るはずなど無いと感じざるを得ません。
それでも人々は神前に額ずこうとしている!...何を祈ろうとしているのか、どんなお陰があるのか知る由も無いですが...
いや、そんな私は寒いのに一体何をしているのか?
行列に加わっているのですよ!、あったりまえでしょ!
そうしてると、エラそうに、批評家気取りで、傍観者みたいに書いてるのが恥ずかしくなって来そうです。
周りはコンクリートだらけでも神社は神社!..”.一寸足を伸ばせば、本来の神社の持つ地場にも触れられるぞ!”、なんてバカなことを言ってはいけない!
神社の存在とは、その地域特有の歴史、(見にくいものとなっても)風土と共にあるものなのです。それは又、一人一人の精神的歴史風土とも関わるものだと思います。
そして、私はどちらとも参拝を終えて、何か私の内部に通ったような、すがすがしい気分になったのでした。(どちらもこの地域で生まれ育った訳でもないですけどね)
なるほど、そこは本来の神社の在り方からはほど遠く、我々の文明が自然が醸し出す気を覆い、閉じ込めたことを象徴しているように、コンクリートで覆われています。
しかし、祈るということは、外からの気の感応ばかりでなく、我々に本来から与えられている、内的なものが呼び起こされることでもあることを改めて感じさせられたのでした。
このような様態にあっても尚、古来からの風儀は伝えているのです。
こんな時代だからこそ、それは尊く映るのでしょう...。
コメント
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