人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

一なるものと一つ

2023-01-03 10:33:08 | 
私は神信仰している人間で、自分が信じている神のみが正しい、尊しとする、狂信的、独善的在り方を全く信用してません。
本当に神を受容しているのなら、そんなことはあり得ないだろうと思うのです。
それは神そのものを受容しているのでなく、人間が思い描き、説いている神を思念しているだけなのです。
神というのは一つのものなんですよ!、だからその神の他に神は存在しないのですよ!
え!...だからだからそうじゃなくて!...そうでもあるし!...
ここでは神を存在論的に、概念的に唯一神論のようなことを言うつもりは無いのです。
もっともそれは一神なのかもしれません。多神的表れもあるかもしれません。神の独り子、あるいは祖先霊とか守護霊的なもの、又はある種の不可知のエネルギーなのかもしれません。要するに分からないのです!
分からないものをただ信じるというのは、概念、観念としてでしか無いのです。
そうした人間的に思い描き、造られたものを介さず、直接その神的なものを受容するならば、それが宗教宗派でどう観念されるものであれ、一なるものという他ありません!
それは実存的に関わらざるを得ません。私の実存は、分裂無き一つのものなのだから!
だから、神との実存的交わりにおいて宗教宗派は全く超えられるのです。
そして、このことにおいて又、自己と神的なものは一如のものとなるでしょう。
つまりは、一なるものと一つになることが合わさるのです。一つのものなのです!
然るに、先のように神を“一つの概念“に限定し、固着して囚われるならば、実存は分裂し始めるでしょう。
驚くなかれ!、これが神を語る多くの宗教でずっと起きていることなのです!
神は人の思念を超えたもの...何故こんなことも分からないのだろうか?...なんて言っててもしょうがないか...
私はご存じのように、様々な異なる宗教と関わって来ました。
この在り方をある信仰者からは、根なし草とか八方美人だとか批判的に言われたこともありました。
だけど、あまり意識的ではありませんでしたが、私の内には、実存的にはずっと一なるものが息づいていたのです。こういうことを言って弁明しようとしたのですが、その時はどう言い表していいか分からなかったのでした。
宗教宗派との関わりは、外向きの形なのです。
私のような歩みでなく、一つの宗派だけに深く関わるのもいいでしょう。
しかし、その場合、独善的在り方は全く余計なことであるのは言うまでもありません。
それは、神を岩戸に押し込めるだけなのですから!
今の私のように、全くそうした関わりを持たないのが一番気楽でいいかもしれません。
形は様々...しかし神は一つ!...神と一つ!

コメント
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