人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神か叡知か

2021-06-15 11:41:51 | 
以前、東京のフレンド会(クエーカー)の集まりで、年配の科学者である会員と話している中で、私が「人類は核兵器という一瞬で世界を破滅に追いやるものを発明しました。もし、我々の見えないところで導く神のようなものが無ければ、人類はとっくに滅びていたと思います」と言ったらその会員は「いや、それは神ではなくて、人類の叡知ともいうべきものだと思うね」という意味のことを返してきました。
私はそれを聞いて、"いくらリベラルなキリスト教であるフレンド会でもこういうこと言う人も居るのかi"、と一寸びっくりさせられました。
叡知...それはどこから来るのでしょうか?...上(神?)から、それとも下から?...我々の表層的思念に隠された、内なる思念のことでしょうか?...
神について語らない禅や、テーラワーダなどの仏教がその修行を通じて目指しているものなのでしょうか?...
超越的なものだろうと、内在的なものだろうと、通常の思念によっては与りしれないものには違いないでしょう。
そういうものを私は神的なものと言っているに他ならないのです。
だけど、神という言葉がネックになっているのか、認めたくない人も多いのでしょうねえ...自分(たち)以外に別在、超在して大いなる意志によって全てを支配しているような存在など...
これには、人類の科学文明信仰のみからの感情の発露だけではないものがあるようです。
"神は全知全能であり、万物を創造した..."
"神は善なる者と悪なる者とを裁いて、死後天国へ行くか、地獄へ落ちるかを定めている..."
こういう神についての先入観には根強いものがあります。
これらは勿論、観念信仰の域を出るものではありません。
もっともこの根強さは、ほとんど刷り込まれていると言ってもいいほど、観念というものだけでは説明の付かないものも感じますが...
それだけに、それを否定するような思いというのも根強いものがあるようです。
私はそこに依存的信仰の在り方へのプロテストというものを感じると同時に、自己を超えてあるものへと開かれていかない、ある心的傾向も感じざるを得ません。
しかし、神を信じようが、信じまいが、そういう"思いを超えたもの"のことは意識されているのでしょう?
この"超えたもの"に意識が向かわないところに、すべての宗教も、哲学も、スピも生まれないでしょう。
そして、何がまず超えられねばならないかと言ったら、神についての予見、先入観といったものではないでしょうか?


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