私はこのブログを始めてから、よりいっそう神的な現臨感というものを強く感じるようになりました。
同時に、修行というものには以前から縁が無かったのですが、自分の思いを深めて高い境地を目指そうとか、悪いクセを改めようとか、要するに自分をどうこうしようという方には意識が向かなくなってきたのです。
そういうことは、これまでもほとんど効果が無いばかりか、却ってそうならないことで、自分を責めたりするなど重い、思いに囚われがちになったりしていたのです。
ある面、ちと反省が足りないということもあるかもしれませんが、いやそれ以上にとにかくそういう思いから離れて、あの愛、安らぎに与ることが何よりも大きいことなのです。
大体、自分で自分を律するような心なんかタカが知れてますよ!、すぐに堰が決壊して暴走するであろうこともこれまでのことで自分で分かっています。
いや、このものこそがそれを抑制する力となっていたのではないか?
“自分、自分“、という思いに囚われたままでは、自分の居場所が無くなるのは目に見えています。
救いは、思い、為そうという自分からはけっして出て来ないのです!
何度も言うように、意識が神的な現臨にあるということは、思いが超えられていることに他なりません。
これは、言うなれば私という個人を超えた、そういう“場“の中にあるということなのです。
だんだん、この私の本体的なものは、そっちにあるような感じがして来るようです。
そうなると、この意識というものは、ともすると自分の中にあると思いがちになるものですが、言わばその“神の場“とも呼ぶべきものにあるということなのでしょう。
このことに関して独自の瞑想法を指導していた、“メタ.ブレイン“(これはその団体名であると共に氏の代名でもあろう)の故山手国弘さんは、“意識は空間にある“と言っていたのも頷けます。
意識が向くとか向いちゃう、とかいうこと自体、そういう超えた場所、空間があることを予想しているではありませんか?
ある種の瞑想などで、神的な存在をこちらからイメージしたりするというよりも、それに先立ってもうそこに臨んでいるのです。だから意識するだけて、パッとつながっちゃう!
言えることは、この神の場の形成が日に日に急速になって来ているのではないか、ということです。
これ、私がブログを始めたからだけの理由ではなさそうですよ!
そもそも、そういう兆しを感じたから始めたのでしたから!...
同時に、修行というものには以前から縁が無かったのですが、自分の思いを深めて高い境地を目指そうとか、悪いクセを改めようとか、要するに自分をどうこうしようという方には意識が向かなくなってきたのです。
そういうことは、これまでもほとんど効果が無いばかりか、却ってそうならないことで、自分を責めたりするなど重い、思いに囚われがちになったりしていたのです。
ある面、ちと反省が足りないということもあるかもしれませんが、いやそれ以上にとにかくそういう思いから離れて、あの愛、安らぎに与ることが何よりも大きいことなのです。
大体、自分で自分を律するような心なんかタカが知れてますよ!、すぐに堰が決壊して暴走するであろうこともこれまでのことで自分で分かっています。
いや、このものこそがそれを抑制する力となっていたのではないか?
“自分、自分“、という思いに囚われたままでは、自分の居場所が無くなるのは目に見えています。
救いは、思い、為そうという自分からはけっして出て来ないのです!
何度も言うように、意識が神的な現臨にあるということは、思いが超えられていることに他なりません。
これは、言うなれば私という個人を超えた、そういう“場“の中にあるということなのです。
だんだん、この私の本体的なものは、そっちにあるような感じがして来るようです。
そうなると、この意識というものは、ともすると自分の中にあると思いがちになるものですが、言わばその“神の場“とも呼ぶべきものにあるということなのでしょう。
このことに関して独自の瞑想法を指導していた、“メタ.ブレイン“(これはその団体名であると共に氏の代名でもあろう)の故山手国弘さんは、“意識は空間にある“と言っていたのも頷けます。
意識が向くとか向いちゃう、とかいうこと自体、そういう超えた場所、空間があることを予想しているではありませんか?
ある種の瞑想などで、神的な存在をこちらからイメージしたりするというよりも、それに先立ってもうそこに臨んでいるのです。だから意識するだけて、パッとつながっちゃう!
言えることは、この神の場の形成が日に日に急速になって来ているのではないか、ということです。
これ、私がブログを始めたからだけの理由ではなさそうですよ!
そもそも、そういう兆しを感じたから始めたのでしたから!...
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