私がいつも霊性の道において、もっとも重要なこととして言っていることは、思い、為そうとする自分からではなく、それを超えたもの、神的なものにより頼む、ということなのです。
これは、もしその道が神と一つになることであるならば、全く当然のこととして受け入れられることでしょう。
いやあ、私なんかは、もうそういう説明なんかを超えて、いつの間にか、というか直ちに、自動的にその神的なものに意識が向けられてしまうのです。これは、そうなるに任せる、ゆだねるっきゃない、ってことですよ!
アーメン、なあ~む、インシャラー、かむながらたまちはえませ...つまり“み心のままに“、という響きの祈りにならざるを得ないのです。これはあらゆる宗教、霊性の道にあって、形、言葉を超えて普遍的に伝えられている祈りと言ってもいいでしょう。
出口王仁三郎師も、“とにかく、かむながらたまちはえませ、と称えていたらよい!、これを称えていれば、最後には救われるのである“、と説いておりました。
しかし、こんな重要な響きを持った祈りが、単なる付け足し的に、形式的に称えられている傾向がどうもあるようなのです。
王仁師が言われていたのは、それをもっと意識的に、思いを込めたものにしなければならない、ということなのでしょう。
意識的になる...これは、実は決まった祈りの文句を口に表して祈る、ということをも超えているものであるはずです。
み心のままに、委ねまつる、という響きに思いが満たされていたらいい、ということです。五井先生もこのことをいつも言っていたではありませんか?
どういう祈りごとを何回、何分、何時間称える、というようなことは二の次なのです。
いやだから、そうしなくても、パッと意識が向いて、満たされてしまうんだからしょうがない!(これを“現臨にある状態“と言っているのです)
私自身、特別な祈りのやり方も修行方法もしてきませんでしたが、ただ一つこうした響きをもった祈りに導かれた、ということは言えるのです。
勿論、最初は思い、為そうとする私がそう祈ろうとするのですよ!
だけど、このことをよく考えて、感じてみて下さい!
その私が、神よ、み心のままにお導き下さい!、と祈ろうとしている、神に自分を明け渡そうとしているのです。
そう意識している...そういうことなんだ!
自然に、そのように導かれてしまうのは当然なのです。
そうして、いつの間にかそういうことになり、直ちにそうなってしまう、という次第なのです!
これはもう、祈るとか意識的になる、というよりも、祈らされる、意識させられることと言ってもいいのです。
ということは、私ではなく、神の方がいつもそのようにハタラキかけている、ということでなくて何であろう!
自ずと霊性の道が開かれる、神と一つにならざるを得ないということではないか?
“み心のままに“という祈りは、実に霊性の道のアルファであり、オメガである、ということではありませんか?!...
これは、もしその道が神と一つになることであるならば、全く当然のこととして受け入れられることでしょう。
いやあ、私なんかは、もうそういう説明なんかを超えて、いつの間にか、というか直ちに、自動的にその神的なものに意識が向けられてしまうのです。これは、そうなるに任せる、ゆだねるっきゃない、ってことですよ!
アーメン、なあ~む、インシャラー、かむながらたまちはえませ...つまり“み心のままに“、という響きの祈りにならざるを得ないのです。これはあらゆる宗教、霊性の道にあって、形、言葉を超えて普遍的に伝えられている祈りと言ってもいいでしょう。
出口王仁三郎師も、“とにかく、かむながらたまちはえませ、と称えていたらよい!、これを称えていれば、最後には救われるのである“、と説いておりました。
しかし、こんな重要な響きを持った祈りが、単なる付け足し的に、形式的に称えられている傾向がどうもあるようなのです。
王仁師が言われていたのは、それをもっと意識的に、思いを込めたものにしなければならない、ということなのでしょう。
意識的になる...これは、実は決まった祈りの文句を口に表して祈る、ということをも超えているものであるはずです。
み心のままに、委ねまつる、という響きに思いが満たされていたらいい、ということです。五井先生もこのことをいつも言っていたではありませんか?
どういう祈りごとを何回、何分、何時間称える、というようなことは二の次なのです。
いやだから、そうしなくても、パッと意識が向いて、満たされてしまうんだからしょうがない!(これを“現臨にある状態“と言っているのです)
私自身、特別な祈りのやり方も修行方法もしてきませんでしたが、ただ一つこうした響きをもった祈りに導かれた、ということは言えるのです。
勿論、最初は思い、為そうとする私がそう祈ろうとするのですよ!
だけど、このことをよく考えて、感じてみて下さい!
その私が、神よ、み心のままにお導き下さい!、と祈ろうとしている、神に自分を明け渡そうとしているのです。
そう意識している...そういうことなんだ!
自然に、そのように導かれてしまうのは当然なのです。
そうして、いつの間にかそういうことになり、直ちにそうなってしまう、という次第なのです!
これはもう、祈るとか意識的になる、というよりも、祈らされる、意識させられることと言ってもいいのです。
ということは、私ではなく、神の方がいつもそのようにハタラキかけている、ということでなくて何であろう!
自ずと霊性の道が開かれる、神と一つにならざるを得ないということではないか?
“み心のままに“という祈りは、実に霊性の道のアルファであり、オメガである、ということではありませんか?!...
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