前々回で取り上げた久松真一先生は、自分でも”私には煩悩がありません”、とその”無相の自己”の境地にあるということを表明しているのでした。
これは、聞いている人間には、そういうことは分からないのが普通ですが、直弟子の阿部正雄先生は、久松先生と接心している時、ただの言葉だけでない、体現されているような真実というものを認めざるを得ないものを感じたと、八木誠一先生との対話の中で言っているのです。
このことについて、感覚的なことなので、同じものなのかどうかは分かりませんが、気づかされることがあります。
それは、大調和協会の会掌、”命位様”との関わりのことです。
命位様という人は、協会の人からは、そういう仰々しい名で呼ばれていますが、普段は言うまでもなく、一寸品のいいお婆さんという感じで、世間話(世間に疎いところはあるが)などもよくされ、当たり前の人間的な感情もある方なのです。
私には、共に”二つで一つ”の関係で、協会を支えて来た、会主、”命御様”の葬儀の時、棺に取りすがって、”焼いてしまうのは、イヤです!”と泣き崩れていた姿を忘れることが出来ません。女性だからということもあるかもしれませんが、とても人間らしいところを見させられたのでした。
ところが...私は、この方と何度も一対一で相対したことがあり(いつもそうなるとは限りませんが)多く、ある日常では感じることが出来ない、言い表し難い、強いて言えば、そう、神的な現臨、ハタラキに包まれてるような感じを持ったことがあるのです。
それは、決まって対話の中で、私がある言葉を発したことで、命位様のスイッチが入り、そこから体現されるものを通してそのように導かれてゆくのです。
どういう感じかと言うと、普通にある個人と相対している感じで無くなる...相対感が無くなるというか、正に”無相の命位様”に相まみえているという感じと言ったらいいでしょうか?
といって、これは先の久松先生の場合ではどうか分かりませんが、命位様が普通の人間を全く超えたものとして、無相ということを言っているのではありません。
正に相手が居ない、命位様が自分か自分が命位様か...ある面では、個人の命位様の何かによって私が感化されているように感じられるのではあるが、それ以上に感じられるのは、神的なハタラキかがそこに現前しているということなのです。命位様と私の二者をハタラキが貫いている!...
このように、相手に無相なものを感じるということは、そこに無相の関係性が生じているということが言えるでしょう。
これは、そうさせる人間の思い、力を超えたものが臨み、働くということでなくて何であろうか?
このことが蔑ろにされる時、”私が超えた、悟った”という自分が顔を出すのでしょう。
だから、ただ言葉で、”私は無相の自己、分別智も迷いもありません”と言うだけでは、どうも誤解されてしまうのではないかと思うのです。
しかしながら、改めてですが、命位様との幾たびかの交流を通じて、いつの間にか、かく書かされている自分が居るということを思うと、計り知れないものを感じずにおれません。
やっぱり、私には命位様は、人間であって人間でない、相手であって、こちらと一つの、無相の存在、無相の命位様と言う他ありません...。
これは、聞いている人間には、そういうことは分からないのが普通ですが、直弟子の阿部正雄先生は、久松先生と接心している時、ただの言葉だけでない、体現されているような真実というものを認めざるを得ないものを感じたと、八木誠一先生との対話の中で言っているのです。
このことについて、感覚的なことなので、同じものなのかどうかは分かりませんが、気づかされることがあります。
それは、大調和協会の会掌、”命位様”との関わりのことです。
命位様という人は、協会の人からは、そういう仰々しい名で呼ばれていますが、普段は言うまでもなく、一寸品のいいお婆さんという感じで、世間話(世間に疎いところはあるが)などもよくされ、当たり前の人間的な感情もある方なのです。
私には、共に”二つで一つ”の関係で、協会を支えて来た、会主、”命御様”の葬儀の時、棺に取りすがって、”焼いてしまうのは、イヤです!”と泣き崩れていた姿を忘れることが出来ません。女性だからということもあるかもしれませんが、とても人間らしいところを見させられたのでした。
ところが...私は、この方と何度も一対一で相対したことがあり(いつもそうなるとは限りませんが)多く、ある日常では感じることが出来ない、言い表し難い、強いて言えば、そう、神的な現臨、ハタラキに包まれてるような感じを持ったことがあるのです。
それは、決まって対話の中で、私がある言葉を発したことで、命位様のスイッチが入り、そこから体現されるものを通してそのように導かれてゆくのです。
どういう感じかと言うと、普通にある個人と相対している感じで無くなる...相対感が無くなるというか、正に”無相の命位様”に相まみえているという感じと言ったらいいでしょうか?
といって、これは先の久松先生の場合ではどうか分かりませんが、命位様が普通の人間を全く超えたものとして、無相ということを言っているのではありません。
正に相手が居ない、命位様が自分か自分が命位様か...ある面では、個人の命位様の何かによって私が感化されているように感じられるのではあるが、それ以上に感じられるのは、神的なハタラキかがそこに現前しているということなのです。命位様と私の二者をハタラキが貫いている!...
このように、相手に無相なものを感じるということは、そこに無相の関係性が生じているということが言えるでしょう。
これは、そうさせる人間の思い、力を超えたものが臨み、働くということでなくて何であろうか?
このことが蔑ろにされる時、”私が超えた、悟った”という自分が顔を出すのでしょう。
だから、ただ言葉で、”私は無相の自己、分別智も迷いもありません”と言うだけでは、どうも誤解されてしまうのではないかと思うのです。
しかしながら、改めてですが、命位様との幾たびかの交流を通じて、いつの間にか、かく書かされている自分が居るということを思うと、計り知れないものを感じずにおれません。
やっぱり、私には命位様は、人間であって人間でない、相手であって、こちらと一つの、無相の存在、無相の命位様と言う他ありません...。
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