人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

消えてゆく姿と十字架

2023-08-29 09:48:47 | 人生の教師
五井先生の「質問ありませんか?」(白光出版)という、質疑応答を集めた著書の中に、「消えてゆく姿の教えとキリストの十字架の贖罪のこととが、ピッタリのように感じるのですが、先生のご意見を伺いたい...」という質問がありました。
私も以前から、これはピッタシだわ!、と感ずるものがあったのです。(実は消えてゆく姿の方はあまり理解してもおらず、そういう行もしてこなかったので、多く語る資格は無いのですが...)少なくとも、“ああ、思いは消えてゆく...“、という実感は何度も与ったことがあるのです。
もっとも、この質問者がどういう理由でピッタリと感じたのか、は分かりませんで、又それに対する先生の答を読んでも、あまりそこに通底しているものは伝わってきません。
というのも、先生のキリストの贖罪についての説明は、惨たらしい血の贖い、大犠牲...苦難を受け入れる、といった通り一辺のものの域を出ないものだったからです。
それでも先生は、「ハイ、同じものですよ」と言う...多分、その奥にあるものを感じていたのでしょう?
私は通説的な十字架の贖罪のことを理解したことも、受け入れたこともありません!
犠牲になれ?...“イヤ“です!、出来ません!...では“聖霊、神的な現臨を受けよ!“...ハイ!
何度も書いているように、このことは小池辰雄先生を通して“受けている“ことなのです。そういう教えを信じたり、行じたりしたということじゃないのです。
ただ受けること...そのキリストの十字架の故事を信じるということでもなく、苦難、犠牲になるということでもありません。
そういう観念的な思い、為そうとする思いを超えたものに与ることに他ならず、それが臨んだら受け入れるしかありません!
聖霊、神的な現臨の中にその思いを無化するハタラキがある...それを受けるために信じたり、行じたりする必要も本当は無いのです。
五井先生の消えてゆく姿には、どうもその“現実に臨むもの“の線は弱い感じがしますが、要するに“神が思いを消してゆく“、ということなのです。
消えてゆく姿の教えが生まれた背景になった、“人間は本来神の子、完全円満なのだ!“という「生長の家」などの教えでも、最近の“あなたという個人は居ない!“、という教えでも、アレコレ思っている自分が手放しでそんな教えを受け入れられる訳がありません。
そう観念的に信じるしかない!...自分はそうなった、出来るんだと!...どこまでも思っている自分が...“が“が抜けない!...しっかし、あの人のように、何十年も消えてゆく姿を行じていて、色んな妄想ごと、自分“が“悟る、という思いから抜けられないというのは、どういうことなのか?
大事なことは、旧態依然としたことを何回繰り返していても、ハッキリと思いを超えたものに出くわさないと、そういう契機は生まれないということです。
だから、どこまでも思いを消してゆくもの、神に思いを向け、入れていくことがあるだけなのではないか?
私には、これが消えてゆく姿の教えの根幹、命のように感じてならないのです!
そして、聖霊と一つの十字架を受け取って、キリストの根源現実に入ること...
ここで、私には二つはピッタリとなっているのは言うまでもありません!
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