いつも言うように、人間は宗教的な道などで、手放しで思考や欲望から離れることは出来ないし、“人間は本来神と一つのもの“、なんて教えの通りに信じることも出来ないのでした。
そこで、五井先生などは、“消えてゆく姿“という教えを説いたのです。思いというものは、現れたら消えるのだから、ひたすら消えてゆくことを観じてゆけばよいのだ、と。
しかし、これだけが独立した教えになると、それも思い、為そうとする自分がやろうとする、一つの行という感じになり、私なんかは、やはりどうにも手に着かない、難しい修行のように思えてしまうのでした。
私以外にも同様に感じた人も、少なからずおられるんじゃないかと思われます。難しい行を無理してやる必要があるでしょうか?...
長年、修行している者でも、自分で為すという自力行みたいに思っているケースが見られたりするのです。そんなことを手放しで出来るんなら有っても無くても同じではないですか?
勿論、五井先生はそんなつもりでこれを教えた訳ではないでしょう。
だから、これは祈りとセットにして説かれた、ということを忘れてはならないのです。
思いというものは、神的なものにあって離れてゆくものだ、ということは難しいも何も、自分がやる何かのことじゃないんだから、自ずからそうなってしまうことで分かるのです。
この点、どうも先生の説き方が中途半端だったのではないか、という印象を受けるのは残念です。
いや本当は、先生の本をよく読めば分かるように、思いは祈りの中に入れたらいい、消えてゆく。ということは随所で延べられているのですよ。
“自分が思うんじゃない、やるんじゃない!、それは消えてゆく姿なんだ、神にお任せしたらいい!“、ということは言われていたのですが、あまり徹底されていなかった様で、どうも消えてゆく姿の教えだけが独り歩きしてしまい、生半可な理解のまま、現実に生かされない型にはまった言葉ばかりやり取りされる傾向になってしまったようです。
消えてゆく姿というのは、“消えてゆく、消えてゆく!“、と思おうとする必要なんか無いのです。
“私は長年の修行で、雑念がすっかり出なくなりました!“、なんて得意になって言っている、某画伯なんか、何が消えていったのか分からないじゃありませんか?(それで、カルトにはまり続けているんだから、何してんだか分からない!)
消えてゆく姿とは、祈りを通して、神の思いを無化させるハタラキに与ることに他ならないのです。
力点がかかることは、自分がどうなった、こうなったじゃないのです。神の無のハタラキがある、神だけがある、ということなのです。
五井先生が生きていた時代は、こういうことを説いていてもあまり伝わらなかったか、又宗教全般には、修行というものが付きものだったのかもしれません。
しかし私は、日に日に、いや増しに神的なものの顕現、そのハタラキの強まって来るのを覚えずに居られないのです!...
そこで、五井先生などは、“消えてゆく姿“という教えを説いたのです。思いというものは、現れたら消えるのだから、ひたすら消えてゆくことを観じてゆけばよいのだ、と。
しかし、これだけが独立した教えになると、それも思い、為そうとする自分がやろうとする、一つの行という感じになり、私なんかは、やはりどうにも手に着かない、難しい修行のように思えてしまうのでした。
私以外にも同様に感じた人も、少なからずおられるんじゃないかと思われます。難しい行を無理してやる必要があるでしょうか?...
長年、修行している者でも、自分で為すという自力行みたいに思っているケースが見られたりするのです。そんなことを手放しで出来るんなら有っても無くても同じではないですか?
勿論、五井先生はそんなつもりでこれを教えた訳ではないでしょう。
だから、これは祈りとセットにして説かれた、ということを忘れてはならないのです。
思いというものは、神的なものにあって離れてゆくものだ、ということは難しいも何も、自分がやる何かのことじゃないんだから、自ずからそうなってしまうことで分かるのです。
この点、どうも先生の説き方が中途半端だったのではないか、という印象を受けるのは残念です。
いや本当は、先生の本をよく読めば分かるように、思いは祈りの中に入れたらいい、消えてゆく。ということは随所で延べられているのですよ。
“自分が思うんじゃない、やるんじゃない!、それは消えてゆく姿なんだ、神にお任せしたらいい!“、ということは言われていたのですが、あまり徹底されていなかった様で、どうも消えてゆく姿の教えだけが独り歩きしてしまい、生半可な理解のまま、現実に生かされない型にはまった言葉ばかりやり取りされる傾向になってしまったようです。
消えてゆく姿というのは、“消えてゆく、消えてゆく!“、と思おうとする必要なんか無いのです。
“私は長年の修行で、雑念がすっかり出なくなりました!“、なんて得意になって言っている、某画伯なんか、何が消えていったのか分からないじゃありませんか?(それで、カルトにはまり続けているんだから、何してんだか分からない!)
消えてゆく姿とは、祈りを通して、神の思いを無化させるハタラキに与ることに他ならないのです。
力点がかかることは、自分がどうなった、こうなったじゃないのです。神の無のハタラキがある、神だけがある、ということなのです。
五井先生が生きていた時代は、こういうことを説いていてもあまり伝わらなかったか、又宗教全般には、修行というものが付きものだったのかもしれません。
しかし私は、日に日に、いや増しに神的なものの顕現、そのハタラキの強まって来るのを覚えずに居られないのです!...
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