先日、 「ある日の五井先生」(清水勇著)という本を読んで、一寸イヤーな気分にさせられました。
ある日、人の過去世が分かるという、会の有力?な講師が「五井先生にも業がある、消えてゆく姿(過失や欠点)がある」と言っていたのが先生の耳に入り、その講師を叱責したというのです。それを又連帯責任があるのか、別の二人の有力な講師が謝っているのです(本人は謝らなかったとのこと)
誰にも業や消えてゆく姿の一つや二つはあるでしょう?、それもこれは常人の与りしれない過去世のことらしいのですよ。こういうことは、おそらく大きな教団の(神に等しき)教祖と講師との関係でなければ、さして問題にならないでしょう。
このことを知って、私は五井先生の“人間的な限界“を感じてならないのです。
いや、もしかして先生は本当に何の欠点も無い、完全なる超人なのかもしれないですよ!
この意味は、五井先生も世の常なる宗教の教祖たちと変わらない、(あまりにも人間的な)尊大な態度を見せることもあるのだ、ということなのです。先生はある講話の中で、そのふんぞり返った態度を見ると虫酸が走る、とか言っていたにも関わらず...
先生に業や消えてゆく姿があることがそんなにコケンに関わることなのでしょうか?
私には、宗教教団に纏わる思いのほとんどが消えてゆく姿に思えてなりません!
そこへ行くと、数多のその神に等しき教祖さんを輩出させた、新興宗教の大本、大本教の怪物と呼ばれた、出口王仁三郎聖師ときたら...接客に際し、素っ裸で現れることもあったとか。本心かポーズなのか分からないが、開けっぴろげの精神の表明なのでしょう。
又若気の至りのことだったとはいえ、過去の派手な女性遍歴のこととか、侠客との関係のこととかも隠さず公表していたのです。
聖師の飾らない、人との距離を感じさせない人柄は「出口王仁三郎と青年座談会」という本などで伺い知ることが出来ます。
これが怪物、日本の宗教史上きってのカリスマと言われた人物の裏の顔であり、いや本当の顔だったかも知れないのです。
この何とも人間臭い有り様が、何と人間離れしているように映ることか!...あの超然とした態度の生き神サマたちには誰もマネなど出来ないでしょう!(こう逆説的なこと書いてきて、ハテ人間とは?、人間らしい人間とは何か、テンデに分からなくなってきました!)
私はここで、“出口聖師と五井先生はどちらが人間として上か?“、な~んてことを言いたいんじゃありません。
その教え的な方でいくと、色々なハッタリとかカモフラージュなどが入り混じってるようで、ストレートに伝わってこない、聖師のものよりも、五井先生の方が分かりやすくス~っと入ってくるところがあります。
そして本来の五井先生は、あんな尊大なところは見せない人であろうことも何となく伝わります。
教団組織というものが人間を変えてしまうのか?、だからそんなものは消えて行ってしまえばいいのです!
いや、なんだかんだ言っても人間がやっていることなんだから!...
人間にはみんな限界があるってことなんでしょう!...あなたも私も人間、大先生も生き神サマも人間...だけどその人間には何かそれをぶっこえた、得たいの知れないものが隠れているらしい?
これが時たま顔を覗かすものだから、人間らしい人間のままで、怪物らしく見えるらしい...
いや、人間は何ともオモシロく、オソロシイものだ!...
ある日、人の過去世が分かるという、会の有力?な講師が「五井先生にも業がある、消えてゆく姿(過失や欠点)がある」と言っていたのが先生の耳に入り、その講師を叱責したというのです。それを又連帯責任があるのか、別の二人の有力な講師が謝っているのです(本人は謝らなかったとのこと)
誰にも業や消えてゆく姿の一つや二つはあるでしょう?、それもこれは常人の与りしれない過去世のことらしいのですよ。こういうことは、おそらく大きな教団の(神に等しき)教祖と講師との関係でなければ、さして問題にならないでしょう。
このことを知って、私は五井先生の“人間的な限界“を感じてならないのです。
いや、もしかして先生は本当に何の欠点も無い、完全なる超人なのかもしれないですよ!
この意味は、五井先生も世の常なる宗教の教祖たちと変わらない、(あまりにも人間的な)尊大な態度を見せることもあるのだ、ということなのです。先生はある講話の中で、そのふんぞり返った態度を見ると虫酸が走る、とか言っていたにも関わらず...
先生に業や消えてゆく姿があることがそんなにコケンに関わることなのでしょうか?
私には、宗教教団に纏わる思いのほとんどが消えてゆく姿に思えてなりません!
そこへ行くと、数多のその神に等しき教祖さんを輩出させた、新興宗教の大本、大本教の怪物と呼ばれた、出口王仁三郎聖師ときたら...接客に際し、素っ裸で現れることもあったとか。本心かポーズなのか分からないが、開けっぴろげの精神の表明なのでしょう。
又若気の至りのことだったとはいえ、過去の派手な女性遍歴のこととか、侠客との関係のこととかも隠さず公表していたのです。
聖師の飾らない、人との距離を感じさせない人柄は「出口王仁三郎と青年座談会」という本などで伺い知ることが出来ます。
これが怪物、日本の宗教史上きってのカリスマと言われた人物の裏の顔であり、いや本当の顔だったかも知れないのです。
この何とも人間臭い有り様が、何と人間離れしているように映ることか!...あの超然とした態度の生き神サマたちには誰もマネなど出来ないでしょう!(こう逆説的なこと書いてきて、ハテ人間とは?、人間らしい人間とは何か、テンデに分からなくなってきました!)
私はここで、“出口聖師と五井先生はどちらが人間として上か?“、な~んてことを言いたいんじゃありません。
その教え的な方でいくと、色々なハッタリとかカモフラージュなどが入り混じってるようで、ストレートに伝わってこない、聖師のものよりも、五井先生の方が分かりやすくス~っと入ってくるところがあります。
そして本来の五井先生は、あんな尊大なところは見せない人であろうことも何となく伝わります。
教団組織というものが人間を変えてしまうのか?、だからそんなものは消えて行ってしまえばいいのです!
いや、なんだかんだ言っても人間がやっていることなんだから!...
人間にはみんな限界があるってことなんでしょう!...あなたも私も人間、大先生も生き神サマも人間...だけどその人間には何かそれをぶっこえた、得たいの知れないものが隠れているらしい?
これが時たま顔を覗かすものだから、人間らしい人間のままで、怪物らしく見えるらしい...
いや、人間は何ともオモシロく、オソロシイものだ!...
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