スブドでは、"ラティハンによって神の力との接触を受け、神に至る道が開かれる"、と言います。
私は初め、この文言に接して、直ちに神の恩寵の光を受け、霊的な目覚めに与れるものだと思い込んだのです。
否応なしに、何かキリスト教で言う"聖霊のバプテスマ"(一様には語れないものでしょうが、これはある種の覚醒体験と思われます)のようなものが連想されたのです。
"数年前の、あの至福の体験が再びよみがえるのだi"、と期待に胸を膨らませたものの...どうも判断を間違えたと言わざるを得ません。
というのも、ラティハン実修者から"私は光明を得た、目覚めたのですi、人生、生まれ変わりましたi"、という話はあまり聞いたことが無いのです。
結果的に、私自身はスブドに居た間、そういうものに与ることは無かったのです。ただ、あのバイブレーションみたいな感覚はよみがえりましたが...
一寸整理すると、どちらも思いを超えた消息を伝えるものだけれど、これは、表れ、感じ方としては違うことを言っているのです。
恒常的に感じるものか、突出的に感じるものか、もっと具体的に言えば、その突出的な状態にある時、全く自分の思考、意志想念を働かすことが不可能になる、自分の意志でそれを止められない、ということです。
大概の実修者においては、フツーでは考えられないような、いわゆる自動運動というか、身体的な動きが"目覚め"て、それが徐々に全体に広がってゆくというのがフツーで、それからあの爆発的な意識の変容に与ったという話はあまり聞かないという訳です。私が知らないだけなのかもしれませんが...
しかしながら、これと違うケースも稀にあるようなのです。
例えば、私が所属していた支部のヘルパー(スブドでラティハンを伝授する職能を持った人)だった、R人さんなど...
この人が、ある時、自分が最初にラティハンを受けた(これを"オープン"と言う)時のことを話してくれて、"それは大爆発だったi"、とか"この世のこととかとはまるっきり違うi"、"自分の意志で抵抗することが出来ないi"とか述べられ、これは当人にしか分からないのは言うまでもないことながら、私にはそれがある種の覚醒体験だったと思えるのでした。
しかし、朧気な記憶では、あまりその話から愛、平安といったものは伝わって来なかったと思いました。感じ方は人それぞれなのは当然なのですが...
このR人さん。アントニオ猪木を崇拝してて、"力の強いものこそ善だi"みたいな、パワー至上主義者のようであり、又体験至上主義者のようでもありました。"体験の無いヤツはダメだi"みたいな...
そして、前記したことと関連して、"本当のオープン、ラティハンとは、フツーとは違うものなのだi"と力説していたのです。
これに私は同調する部分はありつつも、多くは反感を抱いたのです。
この時はあまり意識的じゃなかったものの、"体験すりゃいいってもんじゃないi"という感慨は、この頃芽生えたのは確かなことでした。
もし、そこに愛、平安が感じられないのなら、ぶっ飛んだ体験があろうと何になるだろうか?
ここで私は返す言葉で、"愛、平安に与る体験が無ければダメだi"、みたいなことを言っているのかもしれません。
そりゃ、無いよりか有った方がいいでしょう...だけど私は、あの体験に与る前から、あれほどリアルなものでないにせよ、この消息は知らされていましたよi
実は...この話の本当の裏側は、私自身がその体験というものに囚われていて(だからスブドの門を叩いたのでした)、そのくびきから中々解放されなくて、今もなおそれを引きずっているかもしれない、というようなことを物語っており、その囚われに気付いた端緒のことに触れているのです。
ラティハンにおける、その体験自体、自我を超えたものからもたらされるにもかかわらず、それに囚われることは、得てして自我意識を助長させてしまうことにつながると思われます。
これは私の思い過ごしかもしれませんが、R人さんは、このことで深い葛藤を抱えていたようにも見受けられました。そして何せよ、囚われることは苦しいことなのです。
そこから解放されるには、愛、平安の恩寵の光によるしか無いでしょう。
そして私とR人さんには、あまり表には現れない"暗闘"があったのも事実です。
あの外見はいかにも面の皮が厚そうだけど、"君は時々、ドキッとすることを言うなあi"、と言って、本当にその巨体を揺らしたり、反面、すごーくビビリみたいなところがあったR人さんi
私は、"いつかギャフンと言わしたろう"、と思っていて、その都度パワーに押し負けて果たせませんでした。
"スブドには随分と自分自身を写し出す鏡みたいな人間が居たなあ"、と改めて懐かしさと共に思わされております。
私は初め、この文言に接して、直ちに神の恩寵の光を受け、霊的な目覚めに与れるものだと思い込んだのです。
否応なしに、何かキリスト教で言う"聖霊のバプテスマ"(一様には語れないものでしょうが、これはある種の覚醒体験と思われます)のようなものが連想されたのです。
"数年前の、あの至福の体験が再びよみがえるのだi"、と期待に胸を膨らませたものの...どうも判断を間違えたと言わざるを得ません。
というのも、ラティハン実修者から"私は光明を得た、目覚めたのですi、人生、生まれ変わりましたi"、という話はあまり聞いたことが無いのです。
結果的に、私自身はスブドに居た間、そういうものに与ることは無かったのです。ただ、あのバイブレーションみたいな感覚はよみがえりましたが...
一寸整理すると、どちらも思いを超えた消息を伝えるものだけれど、これは、表れ、感じ方としては違うことを言っているのです。
恒常的に感じるものか、突出的に感じるものか、もっと具体的に言えば、その突出的な状態にある時、全く自分の思考、意志想念を働かすことが不可能になる、自分の意志でそれを止められない、ということです。
大概の実修者においては、フツーでは考えられないような、いわゆる自動運動というか、身体的な動きが"目覚め"て、それが徐々に全体に広がってゆくというのがフツーで、それからあの爆発的な意識の変容に与ったという話はあまり聞かないという訳です。私が知らないだけなのかもしれませんが...
しかしながら、これと違うケースも稀にあるようなのです。
例えば、私が所属していた支部のヘルパー(スブドでラティハンを伝授する職能を持った人)だった、R人さんなど...
この人が、ある時、自分が最初にラティハンを受けた(これを"オープン"と言う)時のことを話してくれて、"それは大爆発だったi"、とか"この世のこととかとはまるっきり違うi"、"自分の意志で抵抗することが出来ないi"とか述べられ、これは当人にしか分からないのは言うまでもないことながら、私にはそれがある種の覚醒体験だったと思えるのでした。
しかし、朧気な記憶では、あまりその話から愛、平安といったものは伝わって来なかったと思いました。感じ方は人それぞれなのは当然なのですが...
このR人さん。アントニオ猪木を崇拝してて、"力の強いものこそ善だi"みたいな、パワー至上主義者のようであり、又体験至上主義者のようでもありました。"体験の無いヤツはダメだi"みたいな...
そして、前記したことと関連して、"本当のオープン、ラティハンとは、フツーとは違うものなのだi"と力説していたのです。
これに私は同調する部分はありつつも、多くは反感を抱いたのです。
この時はあまり意識的じゃなかったものの、"体験すりゃいいってもんじゃないi"という感慨は、この頃芽生えたのは確かなことでした。
もし、そこに愛、平安が感じられないのなら、ぶっ飛んだ体験があろうと何になるだろうか?
ここで私は返す言葉で、"愛、平安に与る体験が無ければダメだi"、みたいなことを言っているのかもしれません。
そりゃ、無いよりか有った方がいいでしょう...だけど私は、あの体験に与る前から、あれほどリアルなものでないにせよ、この消息は知らされていましたよi
実は...この話の本当の裏側は、私自身がその体験というものに囚われていて(だからスブドの門を叩いたのでした)、そのくびきから中々解放されなくて、今もなおそれを引きずっているかもしれない、というようなことを物語っており、その囚われに気付いた端緒のことに触れているのです。
ラティハンにおける、その体験自体、自我を超えたものからもたらされるにもかかわらず、それに囚われることは、得てして自我意識を助長させてしまうことにつながると思われます。
これは私の思い過ごしかもしれませんが、R人さんは、このことで深い葛藤を抱えていたようにも見受けられました。そして何せよ、囚われることは苦しいことなのです。
そこから解放されるには、愛、平安の恩寵の光によるしか無いでしょう。
そして私とR人さんには、あまり表には現れない"暗闘"があったのも事実です。
あの外見はいかにも面の皮が厚そうだけど、"君は時々、ドキッとすることを言うなあi"、と言って、本当にその巨体を揺らしたり、反面、すごーくビビリみたいなところがあったR人さんi
私は、"いつかギャフンと言わしたろう"、と思っていて、その都度パワーに押し負けて果たせませんでした。
"スブドには随分と自分自身を写し出す鏡みたいな人間が居たなあ"、と改めて懐かしさと共に思わされております。
意識の内側、奥底は魂と繋がっていると、内奥とか裏側に真理が存在すると信じている人が多いと思われますが、R人さんやT部さんが言う様に、それは或る種の「誤謬」であると私も経験上、感じております
つまり「深さ」とは無縁の、別の部屋に本質が存在する、だから潜在意識とか表層意識とか、そういう
関係は絶えず入れ替わって、幻に帰結する様なものだと私個人は思っております
一人一人の内奥のことについては、それぞれの観方、感じ方というものがあり、各自が直接知らねばならないことで、全人に当てはまる真実というのは無いと思います。
私自身は前言と違った意味で二重性があるように感じています。
然し実感としては「生まれつきの素質」に恵まれた人が若し居るとするなら、私の書く事の前方にスタート地点が有って当然だと思います
ただ、もし神的な恩寵というものがあるとするなら、"最悪の意識状態"とか、より進んだ(?)"生まれつきの素質の違いというのは、土壌の違いみたいなもので、同じものを受けるだけで、本当は区別が無くなるように感じています。