何度か書いているように、私は昭和58年夏、精神的な目覚めを通して、今生では与れないような愛、平安を実感することが出来たのです。
ところがそれは、あのじんじんとした感覚が自然消滅し、まだそれを回復すべく、スブドの門を叩く以前のことだったのです。
どうして、そんな"冬眠中"にそんなことが起きたのかは未だに分かりません。その眩いばかりの体験もすぐ元の木阿弥になってしまったのも自然の流れだったのかもしれません。
それも私の奥の方の意志でか、見えざる導師の意志でか、いつしか封印され、意識の傍らに追いやられて行ったのでした。
これは私がスブドに関わっていた間、特にそういう状態になっていたのです。
そうして、この秘教団体?に加わって約半年後だったか、突如私はその人間関係でのある摩擦を経験しました。
同じ支部のTという人がいきなり私に噛みついてきたのです。
何かのミーティングの席のことだったのですが、私には全く彼がそんな態度に出るという心当たりが無いので、ホントにびっくりしました。
「俺は何か気に障ることを言ったか?」と隣の友人のMさんに訊いたら「彼は明らかにあなたに悪意を抱いて口撃しているんですよi」との感想を漏らしていました。
これで私の中に"彼は要注意人物i"という黄色信号が点灯されることになりました。
この後彼とはギクシャクとした人間関係を送らざるを得ないハメとなり、同様のことが何度か繰り返されたのです。もっともこれはあくまで私の言い分であり、彼にしてみれば、私の方が危険人物(多分、そうでしょう。何が危険なのかはともかく)に映っていたかも分からないのです。
ある時、彼が大概の理性をもった大人なら言うのをはばかるような、露骨なネガティブな言葉を発してきたことがありました。
私は、ハラワタが煮えくりかえる思いが込み上げて来て、「おい、何してんだ、お前も言い返さないか、倍返ししたれ、それとも溜め込んだ感情を一気に爆発させて、取って置きのヤツをお見舞いしてやるかi」というような感情の声のそそのかしも聞こえてきました。
しかし、その時それを踏み止ませるもう一つの声があったのです。
「お前は知っているはずだ、心の底に刻まれているものを...それを知らないということがどんなに苦しいものか、彼はその苦しみの中でもがいている...お前も苦しみ、もがいている、だがお前は知っているだろう、踏み止めるものがあることを...」
この時の私は、理性的な自制心や、倫理的なことに結び付いた感情が、それを踏み止めているくらいにしか感じていませんでした。
ラティハンの修練においては、理性のブレーキが外される...ここで書いていることは、時にそれが修練を飛び越えて日常生活に影響を及ぼす、という危険性があるという一例を取り上げているのです。
そこには何か重大なことが欠落していると見るべきで、それが私がやめた大きな理由の一つでもありますが、ここでは詳しく触れません。
タガが外れた世界では、怒濤のように押し寄せて来る感情の前には、そういうごリッパな道徳感情なんか、つっかえ棒にもなりません。
しかし、その時内側で私を引き止めていたものは、そういう感情で説明出来るものでは無かったのです。
といって、それが何であるのかはよく分からないですが、具体的に、根本的に心身にハタラキかける、ある道徳ならぬ"律"的なもののことです。"原律"とでも言いましょうか?
そこには愛と平安が刻印されているのです。
私はそこで吹き出して来る悪感情に任せて泥試合に応じることも出来たでしょう。
しかし...もし、それであの至福の世界を閉ざすようなことになったなら..."魂の修練だかのヘチマも無いi"...生きる意味そのものを失うことになっていたでしょう。
ところがそれは、あのじんじんとした感覚が自然消滅し、まだそれを回復すべく、スブドの門を叩く以前のことだったのです。
どうして、そんな"冬眠中"にそんなことが起きたのかは未だに分かりません。その眩いばかりの体験もすぐ元の木阿弥になってしまったのも自然の流れだったのかもしれません。
それも私の奥の方の意志でか、見えざる導師の意志でか、いつしか封印され、意識の傍らに追いやられて行ったのでした。
これは私がスブドに関わっていた間、特にそういう状態になっていたのです。
そうして、この秘教団体?に加わって約半年後だったか、突如私はその人間関係でのある摩擦を経験しました。
同じ支部のTという人がいきなり私に噛みついてきたのです。
何かのミーティングの席のことだったのですが、私には全く彼がそんな態度に出るという心当たりが無いので、ホントにびっくりしました。
「俺は何か気に障ることを言ったか?」と隣の友人のMさんに訊いたら「彼は明らかにあなたに悪意を抱いて口撃しているんですよi」との感想を漏らしていました。
これで私の中に"彼は要注意人物i"という黄色信号が点灯されることになりました。
この後彼とはギクシャクとした人間関係を送らざるを得ないハメとなり、同様のことが何度か繰り返されたのです。もっともこれはあくまで私の言い分であり、彼にしてみれば、私の方が危険人物(多分、そうでしょう。何が危険なのかはともかく)に映っていたかも分からないのです。
ある時、彼が大概の理性をもった大人なら言うのをはばかるような、露骨なネガティブな言葉を発してきたことがありました。
私は、ハラワタが煮えくりかえる思いが込み上げて来て、「おい、何してんだ、お前も言い返さないか、倍返ししたれ、それとも溜め込んだ感情を一気に爆発させて、取って置きのヤツをお見舞いしてやるかi」というような感情の声のそそのかしも聞こえてきました。
しかし、その時それを踏み止ませるもう一つの声があったのです。
「お前は知っているはずだ、心の底に刻まれているものを...それを知らないということがどんなに苦しいものか、彼はその苦しみの中でもがいている...お前も苦しみ、もがいている、だがお前は知っているだろう、踏み止めるものがあることを...」
この時の私は、理性的な自制心や、倫理的なことに結び付いた感情が、それを踏み止めているくらいにしか感じていませんでした。
ラティハンの修練においては、理性のブレーキが外される...ここで書いていることは、時にそれが修練を飛び越えて日常生活に影響を及ぼす、という危険性があるという一例を取り上げているのです。
そこには何か重大なことが欠落していると見るべきで、それが私がやめた大きな理由の一つでもありますが、ここでは詳しく触れません。
タガが外れた世界では、怒濤のように押し寄せて来る感情の前には、そういうごリッパな道徳感情なんか、つっかえ棒にもなりません。
しかし、その時内側で私を引き止めていたものは、そういう感情で説明出来るものでは無かったのです。
といって、それが何であるのかはよく分からないですが、具体的に、根本的に心身にハタラキかける、ある道徳ならぬ"律"的なもののことです。"原律"とでも言いましょうか?
そこには愛と平安が刻印されているのです。
私はそこで吹き出して来る悪感情に任せて泥試合に応じることも出来たでしょう。
しかし...もし、それであの至福の世界を閉ざすようなことになったなら..."魂の修練だかのヘチマも無いi"...生きる意味そのものを失うことになっていたでしょう。
私は然程にカチンと来る人は幸い居なかった
Oさんが上から目線で説教して来るのでムカムカしてましたが、相手がOさんだから諦めるしかない
>>ラティハンの修練においては、理性のブレーキが外される...ここで書いていることは、時にそれが修練を飛び越えて日常生活に影響を及ぼす
ラティハンの影響作用に拠って…と言うよりも多くの場合は自業自得か「人災」に拠る結果だと経験上感じます
公金をネコババした人とか
こんなところからも人間関係がこじれる要因になっているのでしょう。
Oさんの上から目線の説教? あまりイメージ浮かびませんねえ...
それと、私が辞めた後のことですが、支部のお金を横領してた人を知ってますよ。プー太郎さんのような人は会計をやってはダメでしょう。
刑事告訴すれば懲役を食らう悪質な犯罪だと非難され、ラティハンなんか何十年続けても改心する気が無ければ全く無意味なんだと言う声が上がってました
七十歳を越えて自己破産し、退会した人間の背中を蹴り飛ばす様な世故い話に自分は思えました
アル中の人間に居酒屋の店員をやらせて、そら飲んだと騒ぐ様なおかしな話じゃないかと
赤塚不二夫さんなんかは仲間に数千万持ち逃げされても「あいつも戦友なんだし、退職金と思えば気が済む」と度量の大きさを見せてました
スブドの清廉潔白で世故い狭い感じが気に入りませんなあ
スブドには"この世の縮図"みたいなところが昔からありました。分かりきったような"悪いことしたなら悔い改めろ!"という言葉を振りかざしているけど、それを溜まってるうっぷんを晴らすために言っているような...通気性が悪いですね。思い出すと寝付きが悪くなるので、この辺で...