私はいつも、思考マインドから離れ、超えなければ神的なものにつながることは出来ないと言っています。
これは、あらゆる宗教、精神的な道で等しく説かれていることと言ってもいいでしょう。又、もっと正確に言えば、神的なものが我々に臨めばそのように導かれるとも言えるのです。
しかし、これについて私は、“思考を無くさなければならない“、とは一度も言ったことは無いつもりです。
第一、何人にも出来ないのではありませんか?...持ち前からあるものを無くすことはバカげてると言う他ありません。
然るに何故、我々の思考、分別知というものは、その神への、霊性の道と言ってもいいものにかく立ちふさがるのでしょうか?...思考、知性的な道を通して、それにつながることは出来ないのでしょうか?
これが古来より哲学の道として知られていたものなのです。哲学とは思考を超え、霊性を開く道なのか?と思われる向きもあるでしょうが、古代ギリシアの、又インドを始め東洋に発祥した哲学をみても、本来はそういうものであることが分かります。
少なくとも私は、それを指向しない哲学など(それはヒマ人の知的遊戯にしか思えず)、全く関心がありません。
霊性を指向する哲学(この哲学本来の在り方がその界隈では、神秘主義などと曖昧なレッテルを貼られ、傍系、異形のように扱われているのです!)は、それを究明してゆけば、必然的に思考、知性を超える地点に導かれると言ってもいいでしょう。
それは、思考を超えると言っているのだから、勿論知性のみからのアプローチでは、決してたどり着くことは出来ません。それと共に、いやそれ以上にパトス(感情というよりも、感性と言った方がピンと来ます)を必要とするでしょう。というより、そのように精神を促すものがパトスそのものなのではないか?
「私の主要な思想は内部の光明から発する稲妻のように奔湧する。筆をとって書き始めると、激しい勢いで自分が上方に引き上げられ、頭がぐらぐらすることがある」
この霊性を指向してやまない哲学者ベルジャーエフの言葉は、そのパトス性をよく言い表しています。
そして、その思考を超えた地点に立った時、我々の知性というものは、本来感性と分けることが出来ないものであることが示されるでしょう。
知性も感性も霊性に源がある...
霊性に根差したものこそ、本来の精神的な在り方なのではないでしょうか?
そこから知性的な部分ばかりが分離して、抽象論ばかり繰り返して、どこにも落ち着かない論理だけでカタが着いたなどと錯覚している、近代になり特に発達した主流の哲学とされるものこそは、異形と言わねばならないでしょう?
霊性を指向せず、それに根差していない哲学は、全く無機質で、生きた血のパトスが感じられません。又知性を欠いた宗教も感情論に走って盲信、迷信、狂信を生み出します。それも霊性の枯渇が要因になっているのでしょう。
知性は、感性と相まって本来の霊性へと統合されなければならないのです。
これは、知性が暴走している現代の諸相がそのことを浮き彫りにしているでしょう。
しかし一方で私には、その霊なるものの方が我々に露わになって来る、ということも感じずにおれないのですが!...
これは、あらゆる宗教、精神的な道で等しく説かれていることと言ってもいいでしょう。又、もっと正確に言えば、神的なものが我々に臨めばそのように導かれるとも言えるのです。
しかし、これについて私は、“思考を無くさなければならない“、とは一度も言ったことは無いつもりです。
第一、何人にも出来ないのではありませんか?...持ち前からあるものを無くすことはバカげてると言う他ありません。
然るに何故、我々の思考、分別知というものは、その神への、霊性の道と言ってもいいものにかく立ちふさがるのでしょうか?...思考、知性的な道を通して、それにつながることは出来ないのでしょうか?
これが古来より哲学の道として知られていたものなのです。哲学とは思考を超え、霊性を開く道なのか?と思われる向きもあるでしょうが、古代ギリシアの、又インドを始め東洋に発祥した哲学をみても、本来はそういうものであることが分かります。
少なくとも私は、それを指向しない哲学など(それはヒマ人の知的遊戯にしか思えず)、全く関心がありません。
霊性を指向する哲学(この哲学本来の在り方がその界隈では、神秘主義などと曖昧なレッテルを貼られ、傍系、異形のように扱われているのです!)は、それを究明してゆけば、必然的に思考、知性を超える地点に導かれると言ってもいいでしょう。
それは、思考を超えると言っているのだから、勿論知性のみからのアプローチでは、決してたどり着くことは出来ません。それと共に、いやそれ以上にパトス(感情というよりも、感性と言った方がピンと来ます)を必要とするでしょう。というより、そのように精神を促すものがパトスそのものなのではないか?
「私の主要な思想は内部の光明から発する稲妻のように奔湧する。筆をとって書き始めると、激しい勢いで自分が上方に引き上げられ、頭がぐらぐらすることがある」
この霊性を指向してやまない哲学者ベルジャーエフの言葉は、そのパトス性をよく言い表しています。
そして、その思考を超えた地点に立った時、我々の知性というものは、本来感性と分けることが出来ないものであることが示されるでしょう。
知性も感性も霊性に源がある...
霊性に根差したものこそ、本来の精神的な在り方なのではないでしょうか?
そこから知性的な部分ばかりが分離して、抽象論ばかり繰り返して、どこにも落ち着かない論理だけでカタが着いたなどと錯覚している、近代になり特に発達した主流の哲学とされるものこそは、異形と言わねばならないでしょう?
霊性を指向せず、それに根差していない哲学は、全く無機質で、生きた血のパトスが感じられません。又知性を欠いた宗教も感情論に走って盲信、迷信、狂信を生み出します。それも霊性の枯渇が要因になっているのでしょう。
知性は、感性と相まって本来の霊性へと統合されなければならないのです。
これは、知性が暴走している現代の諸相がそのことを浮き彫りにしているでしょう。
しかし一方で私には、その霊なるものの方が我々に露わになって来る、ということも感じずにおれないのですが!...
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