私が生きているこの世界は何次元なのか?
三次元?...そう言われているらしいです。
線の世界が一次元で、面の世界は二次元で、この世界は立体をなしているらしいです。
しかし、現実に私はただの一度もそのように感じたことも、考えたこともありません。
そう感じない、思えないのです。(私だけか?)
見てる世界はなるほど立体的に見えます。しかし目をつぶればどう感じるでしょうか?...
ま、これは次元というものを理解する上で考え出されたものなのですね。そういうことらしいことと実際に感じることは別だ、ということなのでしょう?
何が何次元、どっから次元の段階が変わるのかはともかく、多次元構造というものがあることは一応分かります。
段々分化してゆくという考え方。そして、どうも多元化してゆくほど、高い(何が?)段階になってゆくように考えられているようなのです。高次元だとかね。
私には、これがどうも分からないのです。そう感じさせるものの一つとして、多元化する一方で、絶対に分化することの無い、一元というものがあるのではないか?、という感じ方があります。
この一元というのは、一次元、二次元と数えられるものでない、不変、普遍なる一元的なものです。
つまり何次元あっても、この一なるものと切り離されることは無いのです。あらゆる多次元世界に常に一元世界が隠れているのです。すべての次元を包括しているとも、それが貫いているとも言えるでしょう。
そうでなければ、“帰一“とか“合一“、“統一“、といったものは出て来るはずが無いのです。この根源的な一を欠いたら、調和というものはあり得ないでしょう。
そういう世界が何故高い次元などと言えるでしょうか?
私がここに生きている世界が何次元で、それが高いのか低いのかは知りません。
ここから離れて、それを霊界と言おうと、神界と言おうと高きに至ることは無いでしょう!
行ったことの無いの世界のことなど知りません。私は一元と切り離されない現界しか知らないのです。ここから離れたらそれは観念に浮くだけでしょう!
この現実世界は、三次元なのかもしれませんが、ある意味で一元世界とも言えるし、一元と多次元の二相があるという意味で(誰しもが感じてるであろう)、二元世界とも言えるでしょう。
つまりは感じ方は様々なんです。何で三次元だ、などと決めつけられなきゃならないのか?
一つ言えることは、このように根源的一なるものを欠いたらその世界は立ち行かなくということであり、今のこの現実世界の有り様は、その根源的な一なるものに意識が向けられていないということです。
この一元の世界は、断じて線だけの一次元世界である訳が無いのです。
一というのは、数字の始まりであり、最小なのかもしれませんが、すべての数字は一に還元されるものでもあるのですよ!
どうも、足し算とかけ算とが混同されているようなのです。
それだけ、この根源的一なるものは蔑ろにされているということなのでしょう。
だから、我々は、今日、このどうしようもない現実世界を目の前にしているのでしょう!...
三次元?...そう言われているらしいです。
線の世界が一次元で、面の世界は二次元で、この世界は立体をなしているらしいです。
しかし、現実に私はただの一度もそのように感じたことも、考えたこともありません。
そう感じない、思えないのです。(私だけか?)
見てる世界はなるほど立体的に見えます。しかし目をつぶればどう感じるでしょうか?...
ま、これは次元というものを理解する上で考え出されたものなのですね。そういうことらしいことと実際に感じることは別だ、ということなのでしょう?
何が何次元、どっから次元の段階が変わるのかはともかく、多次元構造というものがあることは一応分かります。
段々分化してゆくという考え方。そして、どうも多元化してゆくほど、高い(何が?)段階になってゆくように考えられているようなのです。高次元だとかね。
私には、これがどうも分からないのです。そう感じさせるものの一つとして、多元化する一方で、絶対に分化することの無い、一元というものがあるのではないか?、という感じ方があります。
この一元というのは、一次元、二次元と数えられるものでない、不変、普遍なる一元的なものです。
つまり何次元あっても、この一なるものと切り離されることは無いのです。あらゆる多次元世界に常に一元世界が隠れているのです。すべての次元を包括しているとも、それが貫いているとも言えるでしょう。
そうでなければ、“帰一“とか“合一“、“統一“、といったものは出て来るはずが無いのです。この根源的な一を欠いたら、調和というものはあり得ないでしょう。
そういう世界が何故高い次元などと言えるでしょうか?
私がここに生きている世界が何次元で、それが高いのか低いのかは知りません。
ここから離れて、それを霊界と言おうと、神界と言おうと高きに至ることは無いでしょう!
行ったことの無いの世界のことなど知りません。私は一元と切り離されない現界しか知らないのです。ここから離れたらそれは観念に浮くだけでしょう!
この現実世界は、三次元なのかもしれませんが、ある意味で一元世界とも言えるし、一元と多次元の二相があるという意味で(誰しもが感じてるであろう)、二元世界とも言えるでしょう。
つまりは感じ方は様々なんです。何で三次元だ、などと決めつけられなきゃならないのか?
一つ言えることは、このように根源的一なるものを欠いたらその世界は立ち行かなくということであり、今のこの現実世界の有り様は、その根源的な一なるものに意識が向けられていないということです。
この一元の世界は、断じて線だけの一次元世界である訳が無いのです。
一というのは、数字の始まりであり、最小なのかもしれませんが、すべての数字は一に還元されるものでもあるのですよ!
どうも、足し算とかけ算とが混同されているようなのです。
それだけ、この根源的一なるものは蔑ろにされているということなのでしょう。
だから、我々は、今日、このどうしようもない現実世界を目の前にしているのでしょう!...
何かを訴えるとか伝えるということは、相手の中にある現臨が自ずと変わるということ以外虚構ですね。
ここではその自ずと変わることを願って膨大な言葉を投げかけているのだといつも敬意を感じています。
他方、思考して思い描くすべてが虚構である故に思考は永遠に真実を求め続ける傾向があるように思えます。その思考を虚構としてしりどける前に、虚構を受け入れて構築し、思考から真実に気付く道を探るアプローチがあってもいいし、それが人間らしいと思えたりします。あえて人間=思考と考えたら、思考を生み出した人間以外に、思考を現臨に引き戻すものはいないのだと思ってしまうのです。
説明が直ちにその真実性につながる訳ではないけれど、言葉を媒介にしてそのある面、ある部分に触れることは、ある程度可能なのではないでしょうか?
思考によって真実を求め続ける人も居るでしょうが、より土台となるもの、直観、感性的なものから切り離されれば、すべて虚構とは言わないまでも、土台からは観念に浮いてしまうでしょう。
私はずっと(多分二年越しくらいに)、貴兄には、思考のみによっては現臨につながることは出来ないが、土台の上に思考されることで可能になると言い続けて来たのです。だからそういうアプローチは勿論あってもいいのです。
問題はただ考え、抽象されるもので無しに、善し悪しでなく、現実に現臨という現事実にぶつかるかどうかということなのです。
受け取ったものが正しく指示されたものを自分のものと出来たら、虚構でない真実にその相手が出会ったということです。
しかし指示された表層だけをとらえて受け止めたら結局自分の真実には出会えない。
私が虚構というのは、この言葉の働きのことを言っているだけのことです。相手が自分の真実に目覚めたからその言葉は真実とは考えないのです。なぜならその言葉で見ざめないものもいるのですから。
私達は死ぬまで虚構の言葉をかけ続けます。私はこの虚構を悪いとは一言も言っていません。それこそが賛歌に値する人間の能力だと言いたいのですね。
私にしたら、ここで出会うたくさんの言葉も須賀らしい人間賛歌だと内心思っているのです。
言葉の詮議はこれくらいにして、貴兄も私も言葉が相手にそのように伝わるかどうかは分からないけれど、言葉が媒介となって、虚構のような中にも真実が伝わることを願って、こうゆうことを続けているのでしょう?
又この世に表れた人間には、自分が真実、幸福に感じたことを表さずにおれない本性というものがあるのだと思います。
ことの順番はまず真実があってその後に言葉が生まれた。これは間違いないことですよね。
この真実を言い表し伝えるために言葉が生み出されたのですから、言葉は真実そのものではなく、ただその真実を指し示しているだけなのです。相手に伝わったとして、それは相手が自分にある真実に気付いたということであって、言葉が真実を運んできたわけではないですよね。
何とかして相手の中にある真実に気付いてもらうために言葉を用いているだけですから、言葉が真実であることはないわけです。
これは伝えている自分にしたってそうですし、伝わった相手にしても、言葉は虚構(ただ指し示しているもの)あるいは伝える道具に他ならないのです。
私という実在があって、相手の実在がある。それは互いに自ずと気付く以外に知る術はないでしょう。言葉はただその変化を介在するだけですね。
虚構だからこそ出来る伝え合いなのです。実在に対話なんて必要ないのですから。そこに幸福に感じたことを表さずにおれない人間の本姓がそうさせるために対話が生まれたのかもしれません。
<お互いに気づく以外に知る術がない。
?...媒介となって、自分の実在が呼び覚まされることもあり得るのではありませんか?
対話の中でもあり得るでしょう?
重きがあるのは言葉そのものではなくて、実在に目覚めることにあるのは言うまでもありません。
あまり言葉に拘る必要は無いのではありませんか?
ただ、「あまり言葉に拘る必要は無い」
この言葉が何を意味しているのかつかみきれないのですが、私の心に響いた波紋はこんな感じです。
①実在に目覚めるのがすべてだから、言葉(虚構)を議論するのは筋違い?・・・
②言葉が何であれ、人は悟ればいい。その後に言葉は必要ない?・・・
③人は悟りだけが目的なんだろうか?悟った後はどうなるの?
④実在に入って、至福は誰が感じているの?実在?人間?
⑤人間も実在。その実在が思考を生み出す。その思考の論理性は言葉で成り立っている。実在から浮き上がっているように見える言葉を捨てるか活かすかの思いは言葉に拘っていることなのだろうか?・・・
諸々そんな思いが出てきます。
私的に答えはあるのですが、あなた様の声が見えないという意味です。
何処でスイッチが入ってしまったのか、五次元の考え方を否定的に感じたためかもしれません。
貴方様の進まれる方向に敬意を持つ故の暴走だったかもしれませんね。長々とい付き合いさせてしまってごめんなさい。どうかお許しいただけますようお願いたします。