人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人格、聖霊、キリスト

2014-12-23 12:13:58 | キリスト教関連
「キリストが我々に教えに来たのは、彼が何者であるかでなしに、我々が何者であるかという事です。」
                     ( マックス・ミューラー 人生の夕べに)

私がこのところ、どうしても釈然としないと感じていることについて書いてみます。
「一なるものから分離した人格なるものは幻想である。不幸や苦悩はそこから起こってくるのである。」これ所謂不二一元論者(敢えてこう表現しますが、私見ではそのように語る個人は存在せず、又この世にそのような学派が存在するとは思えないのですが…)好んで使う言葉ですね。
自分がどの国に生まれ、どこの家に生まれ、どこの学校を出て、どんな仕事をして、何の宗教を信じて…
こういうものから自我の確立、アイデンティティというものが生まれ、そして各々がその存在意義といったものに捉われ初め、一なる生命からの分離感から諸々の苦悩、不調和が起きてくるという訳ですね。
この人格なるもの…これを巡って如何に我々の理解が錯そうされてきていることでしょうか?
宗教哲学者N・ベルジャーエフは、人格のもたらす意義について、熱く語っています。
「人格は人間の内に宿る永遠なる神の姿である。人格は人格より大きい何者かの一部分ではなく…(中略)この世におけるすべてものに比べても勝るとも劣らない全体である。」(ベルジャーエフ 人間の運命)
同じ人格として語られているものでも、そこには天と地ほどの開きがあるように思われてなりません。
後者が述べているのは、まるで不二一元論者が語る真我の事かと紛うくらいです。
前者で言われているのは我々の外被、装飾、付属物であって、我々の当体のことではないのです。
我々の当体は個であっても、一にして全体、絶対なるものを宿しているのです。
全く掛け替えの出来ないものたる所以です。
それが幻であるかどうかは、覚者に聞くより、貴方自身で確認すべきものです。
そうでないと、いたずらに観念的遊戯に陥るだけです。
この種の錯そうが物語っているのは、取りも直さず我々が本当の自分が分かっていないからだと思います。
この世のありとあらゆる問題の全てもまた、そのことに起因しているでしょう。
何故ならば、宇宙も、世界も、歴史も、神も…それを見ている当体が、自分自身がなんであるか分かっていないのだから…。
ところで孤高のキリスト者ベルジャーエフは、当然異端扱いにされるでしょうが、自称正統なる教会では我々の人格のみならず、神もまた人格を有すると言います。
我々と同じように神は怒り、歎き、お喜びになるのだと…聖書に何が書かれていようと、エライ人が何を語ろうとその真偽のほどは神に直接聞かないと分からないでしょうね?
でも別の意味で私はこの人格神というものを否定する気になりません。
波動、バイブレーションといったものを通して、この現臨の現れを知らされるのですが、それがもたらす強烈なインパクト、リアリティというものは到底
気、とか波動といった力学的表現では言い尽くすことは出来ないからです。
ある人間の存在感を表しているものは、何かと言ったら私はペルソナ、人格だと思います。
同じように圧倒的な実在感というものを醸し出しているものとして、人格だか神格?みたいなものを想定してみたくなるのです。
キリスト教に無くてならないものに聖霊と呼ばれているものが有ります。
それには人格が有るのか、無いのか議論が有るらしいですが、その表現から来る響きには確かに力学的なものを超えたインパクトが感じられます。
何よりも親近感が違います。
私は最近、この現臨感というものがどこから来るのか…おそらく光が内なるものを照らし、そこから発してくるものに反応しているのかも分かりません。
聖霊は又パラクレートス、助け主とも言いますが、私はこの恩寵の光を切に望みます。
彼は我々の無益な錯そう、議論にピリオドをもたらすでしょう。
彼が生きて働くとき、我々が何者か知ることが出来るでしょう。
真に我々が目覚めれば、世界は変わる!
もうすぐクリスマス、どこかで神の御子が誕生しますように…。
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