人間とは一体何か?
とても抽象的な問いかけなようですが、つまるところそれは、“本当の自己とは何か?“、という問題に関わってこざるを得ないでしょう?
人間一般のことは、抽象的な哲学的問題に終始するでしょうが、自分自身のことは、これほど具体的な、現実的な問題は無いと言えるでしょう。私自身の現実、真実...これが実存的問題なのです。
抽象的な実存主義哲学についてのお話など意味無いので、“実存にあって“、そのことに触れてみたいと思います。
結論から言って、人間~自分自身の真実のことは、生まれてからずっと分からないままなのです!
分からないまま、のうのうと生きてきたのです!、生きてきちゃったのです!
性懲りもなく...でも仕方ありません。こうして生きちゃっているので!
これは、私の人間としての立場からそう言えることか、それを超えた、神的な、あるいは霊人、宇宙人?みたいなものの立場からそう言うのか、それ以前の問題とならざるを得ないでしょう。
何せ、何だか分からないのですから...少なくとも、人間とは?、本当の自分とは?、あるいは神、霊とは?、と考え続けている私には永遠に分からないままでしょう。
事実、私はそのように、もがき苦しんで生きてきたのです。それでも人間とは?...と問いかけ続けることは、やめることは出来ないようで!...人間とは何か分からないが、それが人間の“サガ“だとは言えるでしょうか?
人間、私は自分が何か分からないまま、この世界にポツンと生まれ出ちゃったようなのです。
そのままの私には、実存的根拠はありません。いや、その根拠は永久に見つからないかも分かりません。
しかし...現在の私は、本当はもがき苦しんで、求め続けなければならないのかも知れないけれど、そういうものは感じなくなりました。
根拠、真実は分からないけれど、実存感覚みたいなものが感じられるからです。
これを現臨感覚と言い換えてもいいのです。
つまり、それは“考える私でありつつ、それを超えたものと共にある“、という感覚に他なりません。
ある意味、それは超越感覚と言ってもいいでしょうが、超えること自体には、限界にあるこの私に帰される何ものも無いのは、言うまでもありません!
だから、それは超越者自らが臨むことと言っているのです。
こうなるのは、限界にある私自らからは起き得ない訳で、超えた方に意識が向かう、あるいは向けられることから開かれるのです。
私自身は、それは祈ることと関わっているのです。祈ることが意識が超越者に向けられることなのです。
私が経験していることがすべてだとは勿論思ってなどいませんが、超越者(単純に神と言ってもいいでしょう)との接点の無い、すべてのアプローチというのは、限界内に留まるのではないかと思われます。
宗教、スピ界隈には、超越的思考とか、超越的瞑想と言われているものがありますが、それらには何らかの形で、祈りとは言わずとも超越者、神との接点が行われているのではないかと拝察されます。
人間とは、そうとは分からずとも、超越者、神を意識せずにおれないものなのでしょう?
それも人間のサガの一つとは言えまいか?、だからいつの時代にも宗教というものは廃れないのでしょう。
人間、私の根拠、真実とは神的なものと切り離されないものなのかも分かりません。
少なくとも私の実存感覚からは、人類にはもっとも肝心なものが欠落したまま、今日世界を迎えているように感じています。
自分たちが何か分からないまま、どこへ向かうのか分からないまま、人類の運命をたどり続けているのです。
しかし、それも見える表層の次元にそう映っているだけで、我々の知らないところで神的なものとつながっているようにも感じています。
そうでなければ、人類は、世界はとっくに終わっているように感じてならないから...
少なくとも、私の人生はあり得なかったでしょう!...
とても抽象的な問いかけなようですが、つまるところそれは、“本当の自己とは何か?“、という問題に関わってこざるを得ないでしょう?
人間一般のことは、抽象的な哲学的問題に終始するでしょうが、自分自身のことは、これほど具体的な、現実的な問題は無いと言えるでしょう。私自身の現実、真実...これが実存的問題なのです。
抽象的な実存主義哲学についてのお話など意味無いので、“実存にあって“、そのことに触れてみたいと思います。
結論から言って、人間~自分自身の真実のことは、生まれてからずっと分からないままなのです!
分からないまま、のうのうと生きてきたのです!、生きてきちゃったのです!
性懲りもなく...でも仕方ありません。こうして生きちゃっているので!
これは、私の人間としての立場からそう言えることか、それを超えた、神的な、あるいは霊人、宇宙人?みたいなものの立場からそう言うのか、それ以前の問題とならざるを得ないでしょう。
何せ、何だか分からないのですから...少なくとも、人間とは?、本当の自分とは?、あるいは神、霊とは?、と考え続けている私には永遠に分からないままでしょう。
事実、私はそのように、もがき苦しんで生きてきたのです。それでも人間とは?...と問いかけ続けることは、やめることは出来ないようで!...人間とは何か分からないが、それが人間の“サガ“だとは言えるでしょうか?
人間、私は自分が何か分からないまま、この世界にポツンと生まれ出ちゃったようなのです。
そのままの私には、実存的根拠はありません。いや、その根拠は永久に見つからないかも分かりません。
しかし...現在の私は、本当はもがき苦しんで、求め続けなければならないのかも知れないけれど、そういうものは感じなくなりました。
根拠、真実は分からないけれど、実存感覚みたいなものが感じられるからです。
これを現臨感覚と言い換えてもいいのです。
つまり、それは“考える私でありつつ、それを超えたものと共にある“、という感覚に他なりません。
ある意味、それは超越感覚と言ってもいいでしょうが、超えること自体には、限界にあるこの私に帰される何ものも無いのは、言うまでもありません!
だから、それは超越者自らが臨むことと言っているのです。
こうなるのは、限界にある私自らからは起き得ない訳で、超えた方に意識が向かう、あるいは向けられることから開かれるのです。
私自身は、それは祈ることと関わっているのです。祈ることが意識が超越者に向けられることなのです。
私が経験していることがすべてだとは勿論思ってなどいませんが、超越者(単純に神と言ってもいいでしょう)との接点の無い、すべてのアプローチというのは、限界内に留まるのではないかと思われます。
宗教、スピ界隈には、超越的思考とか、超越的瞑想と言われているものがありますが、それらには何らかの形で、祈りとは言わずとも超越者、神との接点が行われているのではないかと拝察されます。
人間とは、そうとは分からずとも、超越者、神を意識せずにおれないものなのでしょう?
それも人間のサガの一つとは言えまいか?、だからいつの時代にも宗教というものは廃れないのでしょう。
人間、私の根拠、真実とは神的なものと切り離されないものなのかも分かりません。
少なくとも私の実存感覚からは、人類にはもっとも肝心なものが欠落したまま、今日世界を迎えているように感じています。
自分たちが何か分からないまま、どこへ向かうのか分からないまま、人類の運命をたどり続けているのです。
しかし、それも見える表層の次元にそう映っているだけで、我々の知らないところで神的なものとつながっているようにも感じています。
そうでなければ、人類は、世界はとっくに終わっているように感じてならないから...
少なくとも、私の人生はあり得なかったでしょう!...
私がシタテルヒコ様に興味を持ち、分からないを共有したいと思うのは、人間側の意識と認識の働きであることは間違いないと思います。
なぜなら、私が空体と呼ぶ現臨の中にいるときに、私は何もいらないし、知りたいとも思わない。ただ在ることに充足しています。シタテルヒコ様もそんな経験はあると思います。もっと深いものかもしれませんが、つまり人間なんてどうでもいいというか、意識さえしていません。至福の中にいる時のことです。
けれども間違いなく、私達は言われるように
「もがき苦しんで生きてきたのです。それでも人間とは?...と問いかけ続けることは、やめることは出来ないようで!...人間とは何か分からないが、それが人間の“サガ“だとは言えるでしょうか?」
そのサガを生きているのですね。この表現はほぼ私も同じ言い回しをするでしょう。
この点はどうですか。
つまり私の言いたいのは、私達が知らないうちに追い求めているのは、現臨ではなく、分かりたいという認識の必然的な欲求に他ならないのです。
極論すれば、現臨、あるいは神に出逢いたいのであれば死ねばいいとなりかねませんが、私の本性は断じてそうではないと叫びます。それは人間を捨てることだと。それはあってはならないのだと。
死ななくても、神を体現できる。それが今のシタテルヒコ様の立ち位置化も知れません。けれどもそれが出来ないものは宗教に頼るか、自力でそれを人間の立ち位置で理解するしかありませんね。
分からないというものに対してもがき苦しむ。これが人間の正しいサガとしての認識の姿だと思うのです。
私が五次元を提唱するのは、この認識の力を、新しい概念(スケール)に気付くことで分からないことを大きく解消させることが出来ると思うからなのですね。
そしてめんどくさいと思われながら、(もちろん私が思っているだけですけれど)シタテルヒコ様に絡むのは、ここまで洞察を深められた(宗教色なく論理的にと私には思えるので)あなた様の感性でスケールの概念を検証してもらえないかと思うからなのです。
人間として今ある認識力は、三次元空間の概念と時間の概念を合わせた四次元世界を空想するにとどまります。
しかし実はスケールの概念がまだ手つかずのままです。ちらほらとこの概念は気付かないまま使われていますが(お釈迦様やガリバー旅行記等)時間の概念程には人間のものになっていないのです。
実のところ、シタテルヒコ様の言われる現臨も、スケールの概念を使って認識すると、皮一枚を残して人間の認識が及ぶと考えています。
この大ぼらと大風呂敷に穴がないか、そちらの世界から検証してもらえないかと、記事を読ませて頂いて、あらためて思いました。
対応して頂きありがとうございました。
ことはなかったようです。
それは、安らぎを得られないことに起因していたようです。つまり幸福を求めていたのです。
それは、自分が何か分からない、どう生きていいか分からないという、不安から離れたいという欲求と関わるものではありますが、幸福に与ることで、分かろうとする欲求はあまり起きて来なくなります。安らぐからでしょう。
それは、自分(の思い)を超えたものが臨むことで、自分の存在、実存感覚みたいなものがもたらされるからでしょう。
貴方の“スケール“と言われる概念は、そうした超越したものを示唆しており、又それは概念というよりか、全く自己の本質に関わるものと感じています。
それが深まって来ると、分かろうとする欲求から離れ、幸福に安らぐようになると思います。
私とは対照的なこちらのブログのことに興味があってついからんでしまうのですが、そのめんどくささにはまずお詫びしておきます。
なんとなく納得したのは、
シタテルヒコ様のこの行です
「つまり幸福を求めていたのです。」
それを私が言うと、
(苦悩のない世界を求めていた)ということです。
あえて精神面を階段に例えると
○○⇒不安⇒やすらぎ⇒至福 シタテルヒコ様
苦悩⇒不安⇒やすらぎ⇒至福 私
こう考えると、あなた様は一段高い境地からスタートされたのかもしれませんね。
「分からない」をそのままトータルに受け入れられる達観が既に身についていたのかも知れない。そう考えると納得できました。
悪く言っているのではありません。必要以上に苦悩から傷をつけられない心の段階は、私がそこに至るために還暦以上の時間を要したものですから、純粋に驚嘆の思いの現れとお受け留め下さい。
私が五次元を提唱するのは、この還暦の時間を救うためなのです。
スケールの概念というのは、あなた様が言われるように自己の本質に対して視覚的にあるいは論理的に
触れられる認識を生み出すための梯子のようなものです。ですから、すでにその高みにいると必要のないものですが、苦悩に迷う者にとっては、正しく世界を(己の本質)を思い描くために必要なもの、すなわち概念なのですね。
シタテルヒコ様に、わざわざ降りてきてと申し上げるのは愚の骨頂ですし、多大な迷惑ですので、それが分かった事だけで私は満足です。
私の登ってきた道のりが、その先で見事に交わったということは、苦悩する人々にとって、五次元の概念は精神の支柱になりうるということを、私なりの思いの中に気付かせてもらったことに感謝いたします。(何とも長ったらしい文書、ごめんなさい)
お陰様で現臨という言葉が私の中で随分なじみました。重ねて御礼申し上げます。
今だって普通以下かもしれない...あんまり自分の進歩のことは考えないようにしてます。
ただ、私が思いを超えるとか、そういうことに拘ってそうなことは、自分で思いをコントロール出来ないこと、それにがんじがらめになる苦しみを味わって来たからでしょう。
このように、人にはそれぞれ生の歩みというものがあります。ああいうことも、こういうこともあって、今日があるのでしょう。
その中で、こうして共感し合える縁を持てたことは有難いことです。
今お返事を頂けた、あなた様の歴史を知らないために申し上げたまでのことで、今回より身近に感じられました。
それにしても、現臨に苦しみを味わうというのは、やはり高いレベルでご自分を受け止めておられたのだと思いますよ。私に比して振り返れば、現臨を実在として理解できたのはつい最近のことですから。
「こうして共感し合える縁を持てたことは有難い」
と言っていただけたこと、感謝いたします。
これで対話の打ち切りと思っておりましたが、厚かましくもまた、機会がありましたらお付き合いくださいますようお願いいたします。
現臨に苦しみを感じたことは一度もありません。むしろ幸福なのです。
今後ともよろしくお願いします。
誤解でよかったです。
「自分で思いをコントロール出来ないこと、それにがんじがらめになる苦しみを味わって来たからでしょう。」
というお言葉に対して誤解したようです。
誤解して、現臨の前で、己との誤差に対して苦しみを味わったと解しました。
これは現臨を彼方に見ていなくてはできないことですから、そんなコメントになりました。
ところで
一つ質問が生まれました。教えていただければ嬉しいです。
シタテルヒコ様にとって、現臨はいつどのような形で意識(認識)の中に生まれたのですか?
「開かれるということ」の記事でも触れられていますが、論理と言葉の違いを、現臨に対して「閉じる」「開かれる」と考えられているように思えたのですが、誤解があるでしょうか。
論理が通るのは「閉じる」なのか、知識が通ることに満足して結果「閉じる」状態になるとお考えでしょうか。
論理が知識に陥らず、現臨の奥に届く可能性はどうなのでしょうか。
それが芽ばえたのは、何度も書いていますが、昭和54年の初め頃、ある恐怖感、不安感から逃れたいと、一心不乱に祈っていたら、思いどころか意識まるごと無くなってしまうような、かつてない筆舌に尽くせない恐ろしいメにあったのです。
その場は、思いを超えた何かが働いたのか、どうにか落ち着いたのですが、まだ現臨の自覚は無かったのです。
それからしばらくして、祈るともつかないようなことをしているうち、今に通じる現臨感覚を自覚するようになったのです。
この感覚に根差しつつも思考を働かし、論理を借りたりしても、開かれた状態でいられることは可能ですが、思考、論理の世界だけでは、限界に留まり、どっかで超えられる契機がなければ、現臨の奥に届くことは不可能でしょう。
現臨を意識されたとき、それは論理ではなく体験と気付きだったということはとても信憑性があって、納得できるものです。ありがとうございました。
そして「思考、論理の世界だけでは、限界に留まり、どっかで超えられる契機がなければ、現臨の奥に届くことは不可能でしょう。」
このお言葉は、私にも100%理解できます。
それで、「超える」とは認識主体が変わることだと思うのです。自分という認識主体は、実は物質と空間の二面性があって、普段は物質の自分が認識主体になって世界を見ているのですが、空間を認識主体にして認識する事が出来る。
これを私は「空体」と呼んでいるのですが、空体を認識主体にしたら現臨が見えるのですね。
主体が入れ替わるのは論理ではなく、意識の問題です。事実の裏表が入れ替わるのですね。それが「超える」契機としたら、人間は超えるその直前まで論理によって道程を思い描くことが出来るのではないかと期待するのです。
人間の立場で、天国というような曖昧なものではなく、現臨の風景を想像出来るとしたら、人間の次元が上がると言えるように思えます。
四次元人間が五次元人間に変る。これはもちろん論理の段階の話しです。現臨に至る前に、まだ人間はもう一つ次元を高めて成長できる力を持っていると考えました。
事実、空体を思い描いていると、時間は止まったまま、今この場所を動かず小宇宙から大宇宙まで一つの融合体と認識できます。すると時間が作りだす苦悩{後悔、不安、焦りなど)は消えるのです。
超越ではなく概念でそこまで導くことが出来る。
それなら今すぐ現臨に至らなくとも、人間は人間のまま頂点まで上り詰める可能性があるように思えます。
この点、どう感じられますか?
ただ、
「何か助けになることはありませんか」
だはなく
「助けてもらえないか」
が主旨なので、それだけはご理解ください。
対話が私の肥やしになっているので、出来ればシタテルヒコ様にも肥やしになっていればと願うばかりです。
そうでなければ人それどれ、互いの道を行くしかありませんものね。御免なさい。