人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識が向いたままが人生

2024-08-11 09:43:51 | 意識、照明
意識するとか向けるとか、いつも言っておりますが、人間の在り様は、思考するか行動することしかない、と強く思っている向きには、一寸分かりにくいでしょう。
それは単純に言えば、あなたの気というもの、そう、“気が向く“とか“その気がある“、“本気“というものの根っこにあるようなものです。
やる気というものとはちと違いますよ。やろう、為そう、しかして得ようということとは、直接結びつかないのですから!
思おう、為そうとするパッションが大勢な人には分からない!...例えば、私がチョイと知っている、長年五井先生に従って宗教、祈りの道を歩んでいるという、反面教師の画伯などはどうもそういう傾向が強く感じられます。1ミリ先でも前に進むように為そうと努力するんだそうです。暑いのにご苦労さんなことです。
私なんかには、何故そういうところに宗教、祈りの道が開かれて来るのか?、てんでに分からないのですが...きっとこれまでの人生で自分が思い、為すことで挫折を味わったことが無いのでしょう?
それが幸福なことなのか、そうでないのかということは、他人の私には分からないし、どうでもいいことなのですが...先のこともあって宗教、祈り、特に五井先生絡みでつい余計なことを言いたくなる次第なのです。
もっとも、この御仁、最近そうやって、あっちに脱線、こっちにスコタン、と色々なカルトっぽい教えなどを信じ、やって来たものの、どうやらそれが迷いだったことに(ようやく)気付き始めたようなのです。でもやっぱり何かを為すことに飽くなきパッションは持ち続けているのでしょう?
そうしたい、そう望んでいるのだから、こればかりはしょうがないことなのです。(他人や、世の中や、サタン、闇の勢力のセイにするなよ!...本気で神サマのセイにしたら?、天国か地獄かどっちかだろう!)
気がある、向くということは意識がそうなっていることに他ならないのです。
そうなっていないことは、人間何も赴かないし、行動出来ません。
例えば、神を求める、神と一つになりたいと望む...漠然と思っているだけじゃなくて、本気で望む。
それに対し“本気出せ!“、なんてのは余程ズレた物言いですよ。それは、実に主体的な在り方なのですから!
その本気というのは、どこから来るのか?...そこで、思っているだけじゃダメだってんで、神を求めて、何かの修行を始めたりする、つまりやろうとする...
しかし、どうもその修行には気が向かなくなるかもしれません。それでも目的はその先に見据えられているんだからとやり続ける...何かを得られるまで!...
そうやって、ずうっと修行をし続けてる人って居ないでしょうか?
気が向かないことをいくらやっててもしょうがない。形式化、惰性に流れるだけでしょう。そおして、先にあったものもいつしか見失い、脱線し始めるのではないですか?
だけど、あなたにはその神を求めることの最初から、そこにそう求めてやまないものを感じているあかもしれません。
それがそう意識が向けられていることに他なりません!...そこに、何がしかの愛、安らぎというものが感じられないでしょうか?...これがそう向けせしめるものなんだ!
で、何かの修行をやって何を求めているのでしたっけ?...それを求めても得られないものは、既に与えられていることに気が付かなければなりません。
それが意識的になることなのです。そのことをもっと深く意識する、味わう...その他に何かの方法なんてあるか?!...で、こういうことは、思い、為そうとする自分だけからは絶対に出て来ない、開かれて来ないことは言うまでもありません。
“いや、そんなことではダメだ、行動しなくては?“、と思いたがる、やりたがる向きは、思考を超えた、意識次元が開かれることがどういうものなのか分からないのでしょう。
それも、本人がそうなってんだからしょうがありません!
そうなっているまま生きているのが、その人の人生なのだから!
意識が向いたままが人生なのです!...

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