人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

原点への回帰

2021-05-18 11:54:24 | 回想
過去を回想してみると...
私は割かし記憶がいい方なのかもしれませんが(近い過去のことはかなり曖昧です)、過去のことをありのままに想起することはまず不可能です。
それは、何と言っても現在の私が想起している訳で、どっかで現在の心境というか、意識状態がそこに反映されてしまうことはやむを得ないでしょう。
というよりも、作家の辻邦生さんが「時間の逆流」と言っていたようなことは避けられないように思います
もし、過去のことがリアルに意識裡に甦って来たならば、それは正に現在にそう感覚されていることに他ならないのです。
それが過去をありありとしたものにしているのでしょう。
又、そのリアルな思起をいっそう際立たせているのは、言うまでもなく過去のメモリアルなものの現在への顕現でもあります。
回想というものには、時間を超えたものが息づいているのを感じずにおれません。

昭和57年の暮、私は関西から東京に帰省していました。
西荻窪にあるキリスト教専門の古書店で、小池辰雄先生の著作集第三巻「無の神学」を求め、それから明くる正月の間、夢中で読んでいました。
久しぶりに、時間や場所を忘れてしまうくらい高揚して、その本に引き込まれて行きました。
私は、そうして原点に戻らされたようなのです。
私の原点...と言っても、どこにそう感じさせる起点があるのかは判然としないのですが、とにかく当時も今もそう感じざるを得ないものが私の中に息づいているのです。
端的に言えば神、神的なもの、最愛なるもの、そのものへの回帰ということになるでしょう。(そこでは、小池先生の伝える"無者キリスト"を通してということになるでしょうが...)
"回帰"という二文字が、もうそういうことを言い表しているのでしょう。
そして、この前年、精神的覚醒への求めてやまざる欲求と共に、そのことへの迷いというものももたげていたのが、一気に晴れたように感じました。
原点への回帰というのは、けだしそうさせざるを得ないものではないでしょうか?
もう、覚醒をもたらすであろう、霊的エネルギーを神的なものそのものから切り離してしまうようなことには囚われなくなりました(後年、性懲りもなく囚われてしまいましたが...)。
神への回帰こそは、私の原点回帰である...このことは、私の人生のあらゆる局面で言えることなのです。
これは、今も今、そう感じているのは言うまでもありません...。
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