人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

気付きと現臨

2021-08-02 11:49:36 | 現臨、ハタラキ
毎日暑いですね。
とてもガンバローi、という気が起こってきません。私、ヘタレなもんで...
これが、私がこれまで修行というものをして来なかった大きな理由の一つです。
真似しないで下さいね。修行を否定してる訳じゃないんですから。出来る人は多いにやったらいいでしょう。
んで、私は、このまま思考がおぼつかなくなって、幻想とも現実ともつかない、カオスみたいな中に呑まれちゃうのでしょうか?
いいや、そうなりかけた時こそ...気付いていたらいいのですi...いいや、この気付き自体が現臨と共に、自ずとやってくるというか...誰にも真似出来ないでしょう?...やって出来る人など居ないi
気付きと現臨...これは、あらゆる精神的な道のベースとなるものでしょう。
毎度のことながら、いつの間にか、シャキッとなってしまうから不思議なのです。
気付くと言ったって、何に気付けばいいのか分からない...現臨に気付く、あるいは気付かされる、ということを言っているのですが、それがどっから、どうなって、どうやって降りて来るのか?、とはいつも考えていることなんですが...
こないだ、あるブログを読んでいたら、そこでは"プレゼンス"と言っているのですが(こっちの方がポピュラーな言い方なのでしょう、多分同じ意味です)、それを誘起するには、ヒタイの辺りから数センチぐらい前方を意識して、そこから光が射し込んでくるのをイメージしたらよい、といった意味のことが書いてありました。
ん~、確かにそのように感じることがあるのも事実です。けれど、私は囚われていません。自然とそう感じたらそれでいい...ヒタイの辺りにあるというチャクラのこととかも特に意識したりしません。(すぐに全身全霊的に広がって来る感じになります)
自然に、囚われないということが肝心なのです(それが又、修行をほとんどしない理由の一つ)。意志的な力、イメージの力というものに重きを置いてしまうと、思いを超えたものに意識が開かれてゆく、という感じが蔑ろになってしまうでしょう。
又、現臨というものは獲得されるようなものでなく、自ずと臨んでくるものなのです。元々こちらにあったものが呼び覚まされると言ってもいいでしょう。
私の場合、主として、手島先生や小池先生の著書(そこではキリスト教的な"聖霊"、という言い方をしているのですが)から啓発を受けたことが大きかったのです。
読んだ時は、ただ心情的に共感した、というだけのようにしか感じていなかったのですが、知らず知らずに深まって行き、何とかそういうものを捉えようとしている内に、捉えられてしまった、という次第です。いや、最初から捉えられていたというべきか?...自ずと惹かれてしまうものを感じていたのですから...
こんな風なことだから、どうやってそうなったかが分からないのですが、こういうことを漠然と考えごとにしないで、意識していたらいいのです。
そしてある時、イメージするんでなしに、リアルに光が射し込んで来るi...かもしれない?
そこにもたらされた現臨感覚に気付いていたらいい、ということです。
(ヒタイがモゾモゾすることも含め、私が言っていることもあくまで参考にして下さい。真似しないでね...。出来ない?)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 真夏の朝感じたこと | トップ | 分離の無い道 »

コメントを投稿

現臨、ハタラキ」カテゴリの最新記事