霊性の道において、絶えず去来する思い、思考マインドから離れることが如何に重要なことであるかは論を待たないことでしょう。
それには、精神集中、統一しなければならないのだと。
私なんかは、生来すぐ思考のがんじがらめ状態に陥ってしまうもので、最初から諦めているところもあり、ことに瞑想などの修行では重視される、そういうことには関心が向かなかったのです。
それに携わる人なら集中、統一しようとすればするほど、ますます思考が活発にあるという経験があるでしょう。
それは、思考と同じ意志想念によって、“思い、為そうとする試み“、ということも感覚的に分かるのです。
だからこれは、いつも言うように、考えている自分からは何も始まらない、ということを表している典型的な例とも言えるのです。いや、ごくろうさんな話ではありませんか。
そんながちゃがちゃした思いなんかは、ほれ、アッという間に離れて(無くなるとかいう非現実的なことではありませんよ)、自分が一つに統合された感じになりますよ。
これ、私の長年の修行の成果なんですよ!...って、だからそういう心得なんか持ち合わせてなんか無いっつ~の!
先の理由で、私は別に自分の思いをどうにかしようとして、そうなった、訳じゃないのです。
ただ、祈っていた、神的なものに意識を向けていただけなのです。
そうすると、心が安らぐ、幸福に包まれる感じがするから!...私が行う何かではない、そう為さしめるものがあるのです!
だから、私がどうなった、どう変わったというような自覚も無いのです。がちゃがちゃした思いというのは相変わらずあるのですよ。だけど、パッと神を意識するだけで、パッとそれは晴れてしまうんだから仕方無い!
思いから離れるということは、一つに統合されることと同じなのです。
これが深まると、最近の私のマントラみたいですが、“神、真我しかない“という感じになります。
だから、霊性を開く道は、“まず神を求めよ!“、ということから始まるのではありませんか?
神でなければ、ダンマとかタオとか超越的実体と結びつかない、ある種のハタラキ的なものでもいいでしょう。
ただ、私的には神的なものというのは、その実体は分からなくとも、そういう先入観念を持ち込まなくとも、具体的、即自的につながるという感じがするのです。具体的に愛、平安在らしめるものとつながる感じがする...。
何故、こういうことになるのか?...それは、元々人間存在は、一個なるものから成っているのではなく、その個を超えたものと切り離されることなく、一つのものとして成っているということなのでしょう。
だから、神を求めるということは、そのすべてなる自己を求めるということでもあるのです。
どの神を求めるのか?...それは、あなたがもっとも惹かれ、愛し、帰依している神でしょう?
そんな神は特にない?...いいや、あなたをあなた在らしめている神は何人にも存在しているではないか?!
私やあなたの神に!...
それには、精神集中、統一しなければならないのだと。
私なんかは、生来すぐ思考のがんじがらめ状態に陥ってしまうもので、最初から諦めているところもあり、ことに瞑想などの修行では重視される、そういうことには関心が向かなかったのです。
それに携わる人なら集中、統一しようとすればするほど、ますます思考が活発にあるという経験があるでしょう。
それは、思考と同じ意志想念によって、“思い、為そうとする試み“、ということも感覚的に分かるのです。
だからこれは、いつも言うように、考えている自分からは何も始まらない、ということを表している典型的な例とも言えるのです。いや、ごくろうさんな話ではありませんか。
そんながちゃがちゃした思いなんかは、ほれ、アッという間に離れて(無くなるとかいう非現実的なことではありませんよ)、自分が一つに統合された感じになりますよ。
これ、私の長年の修行の成果なんですよ!...って、だからそういう心得なんか持ち合わせてなんか無いっつ~の!
先の理由で、私は別に自分の思いをどうにかしようとして、そうなった、訳じゃないのです。
ただ、祈っていた、神的なものに意識を向けていただけなのです。
そうすると、心が安らぐ、幸福に包まれる感じがするから!...私が行う何かではない、そう為さしめるものがあるのです!
だから、私がどうなった、どう変わったというような自覚も無いのです。がちゃがちゃした思いというのは相変わらずあるのですよ。だけど、パッと神を意識するだけで、パッとそれは晴れてしまうんだから仕方無い!
思いから離れるということは、一つに統合されることと同じなのです。
これが深まると、最近の私のマントラみたいですが、“神、真我しかない“という感じになります。
だから、霊性を開く道は、“まず神を求めよ!“、ということから始まるのではありませんか?
神でなければ、ダンマとかタオとか超越的実体と結びつかない、ある種のハタラキ的なものでもいいでしょう。
ただ、私的には神的なものというのは、その実体は分からなくとも、そういう先入観念を持ち込まなくとも、具体的、即自的につながるという感じがするのです。具体的に愛、平安在らしめるものとつながる感じがする...。
何故、こういうことになるのか?...それは、元々人間存在は、一個なるものから成っているのではなく、その個を超えたものと切り離されることなく、一つのものとして成っているということなのでしょう。
だから、神を求めるということは、そのすべてなる自己を求めるということでもあるのです。
どの神を求めるのか?...それは、あなたがもっとも惹かれ、愛し、帰依している神でしょう?
そんな神は特にない?...いいや、あなたをあなた在らしめている神は何人にも存在しているではないか?!
私やあなたの神に!...
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