人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

開かれるか、閉じられるか

2025-01-06 06:03:33 | 求道、探究
私は、常々人生は“開かれるか、閉じられるか“で決まってしまうと感じています。
具体的に言えば、思いが開かれるか、閉じられるかということに尽きるでしょう。
例えば、宗教や哲学、スピリチュアルなど精神的な道に目覚め、深めようとするならば、本当に真理を知るとはどういうことなのか、ということに誰しもが思い当たることがあるでしょう?
中々この知るということ、真理なら真理に間近にぶち当たるということに居たらないことに煩悶を覚える人も居られるでしょう?
こういう人は、どっかで思いを超えた世界、それに開かれた自分自身の在り方というものを感じているはずなのです。
間近に、真向かいにそれにぶち当たるとは直接的に知るということです。
思いを超えたものを知る、自分自身に直に!...これは神的なもの、実存的なものを知る、つながることを意味するに他なりません。
どうあっても、こうあってもそれにつながらなければ、不十全感が残ってしまう...
これは、自分では自覚は無くとも自分の表層的な思いを超えて、そういうものを感じているということではないでしょうか?
自分では、そこにつながらないことに思いが閉じられているように感じ、思ったりするのでしょうが、そう感じていること自体、開かれている状態と言ってもいいでしょう。
これに反し、精神的な道には蛇がとぐろを巻いているように、罠が待ち受けています。
これが真理、神、真我である、と言葉だけ、概念だけで、誰かが神になった如く、そういう教えを説いていたりします。
精神が貧困な人間は、これに容易く迎合してしまうのです。そういう教師を又、神の如く仰いだりしてしまう。
そして、頭脳知の皮相な部分だけで、真理が分かったつもりになっているのです。
分かったと思うことが、思いが閉じられる、その初めだとも知らずに!
そこで思考停止して、ずっと開かれることがありません。
“六次元の神につながる“とか“何段階もの霊的階層を登らなければならない“とか、確証も無いどうでもいいことに囚われたりして!...
こういう思いのクセが出来上がると、中々自分でそれを超えることが出来なくなります。(半世紀近くもそういう精神状態の人間も居ます)
思いが開かれないとは、神に開かれない、実存、真我に目覚めることが無いということですよ。
一体、何のために神、真理を求めているのでしょうか?
要するに、そういうことは頭で知ろう、分かろうとする必要は無いということでしょう。
もし、本当に真摯に神を求めるのなら(これが直接的に求めることにつながることなのですが)、理屈でなしに、こちらが惹きつけられてやまないものが感じられて来るはずです。
これがどうあっても、こうあっても求めてやまない事態に導かれるということなのです。
それが頭だけでない、全身全霊的な在り方というものでしょう。
具体的には、言い知れぬ幸福感といったものがそう導くのです。それは実存感覚を呼び覚まさずにおれません。
どうして、容易く短絡的に他人の言説などに支配され、追従などしておれようか、あたら人生を他人にゆだねて無駄になど出来ようか?
分かる必要が無い!
分からないことは、あなたの神にゆだねるに如かず!
さすれば、春風のように、あなたの思いを超えて新たな響きがあなたの中に吹き込んで来るでしょう!...



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