「神の本質についての何らかの知識に達するずっと以前に、我々は神の現臨の直観を所有しているのである。」
(A.J.ヘッシェル 「人は独りではない」教文館)
リンゴは何故落ちるのか? 万有引力があるから…と、科学はこのように証明しますね。
では、万有引力は何故あるのか?
太陽は東から登る、地球が太陽を回っているから…かのコペルニクスが証明したのだ…だが、何故、そうなっているのか?
人はもっともらしい証明さえ得られれば、お墨付きを持らった様に納得してしまうようですね。
そして、そこから本当に驚愕すべき事実を前にした畏怖の感覚が、我々から抜け落ち始めるのです…。
我々は何故、生きているのか? 心臓が鼓動し、呼吸をしている…そういう機能が有るからだと言って納得してしまったなら、この神秘的機能は単なる機械と何ら変わらなくなってしまいます。
しかし、機械からはあの言葉で言い表わしえない、暖かみ、命の波動といったものは伝わってきません。
証明されえるもの以前には、それよりはるかに広大な領域に、証明され得ぬものが生き働いているのです!
そして又、その不可知のものに対し、神の意志が有るからである、と短絡的な説明がなされることによって、我々の限りある思考によって広大な領域は狭められてしまいます。
私自身も神という表現を便宜的に使いますが、それは言葉で言い表しえぬものであるのは言うまでもありません。
それは証明され得ぬものであるのは勿論、信仰の対象にも成りえません。
成りえるとしても、何らかの象徴以上のものたりえません。
もし、そこで象徴を超えて、信仰対象そのものになってしまったならば、おそらくそれ自体との生きた交わりは絶たれてしまうでしょう。
このものには、科学的証明も宗教的教義も不要なのです。
この生き、働いているものを感得しているものにとって、それは自明のものだからです。
純粋に空気や日光に触れられるように、感覚出来るものです。
いや、我々がそもそも生きているという事は、このものが生きているという事なのです。
何らかの修行をしなければ、獲得出来ないというものでなく、「神秘は我々自身と離れて存在しているのではない」(ヘッシェル)のです。
マルティン・ブーバーと並ぶ、ユダヤ系哲学者A.J.ヘッシェルはあらゆる宗教、哲学思想を超えて「神の現臨」へと、我々を誘う優れた語り手です。
(手島先生の息子さんで、ユダヤ神秘主義の貴重な研究をされている手島佑郎さんは、晩年のこの現代の預言者の弟子でした。)
我々のごく日常には、至るところに言い表わしえぬものを見出すことが出来ます。
いつも、その静かな、穏やかな営みの赴くままに我々の営みをまかせていれば、時にそれが意識へと浸透して、何もかもが新たに生まれ変わる…
彼のメッセージは今、世界的規模でフタ開けし始めている、意識の目覚めを前にして、とかく”又聞き”による先入観などによって、曇らされてしまいがちな我々の精神に原初的な、原体験的な脅威、畏怖の感性を呼び覚ましてくれる道導べとなるでしょう。
いくら考えても分からないことを、分かろうとしたり、悟りや覚醒についての定見にとらわれたり、何にもまして”分かったつもり”になることは再びフタを閉めてしまうことになりかねません。
我々は何一つ分かっちゃいなかった!分かる必要も無かった!ずっと、ずっとこのものと共にいたのです!
我々が知る以前に、このものによって知られていたのです!
我々が捉える以前に、このものによって捉えられていたのです!
それでも地球は回る…回っているから回る…驚いた! 私の眼も回る…。
(A.J.ヘッシェル 「人は独りではない」教文館)
リンゴは何故落ちるのか? 万有引力があるから…と、科学はこのように証明しますね。
では、万有引力は何故あるのか?
太陽は東から登る、地球が太陽を回っているから…かのコペルニクスが証明したのだ…だが、何故、そうなっているのか?
人はもっともらしい証明さえ得られれば、お墨付きを持らった様に納得してしまうようですね。
そして、そこから本当に驚愕すべき事実を前にした畏怖の感覚が、我々から抜け落ち始めるのです…。
我々は何故、生きているのか? 心臓が鼓動し、呼吸をしている…そういう機能が有るからだと言って納得してしまったなら、この神秘的機能は単なる機械と何ら変わらなくなってしまいます。
しかし、機械からはあの言葉で言い表わしえない、暖かみ、命の波動といったものは伝わってきません。
証明されえるもの以前には、それよりはるかに広大な領域に、証明され得ぬものが生き働いているのです!
そして又、その不可知のものに対し、神の意志が有るからである、と短絡的な説明がなされることによって、我々の限りある思考によって広大な領域は狭められてしまいます。
私自身も神という表現を便宜的に使いますが、それは言葉で言い表しえぬものであるのは言うまでもありません。
それは証明され得ぬものであるのは勿論、信仰の対象にも成りえません。
成りえるとしても、何らかの象徴以上のものたりえません。
もし、そこで象徴を超えて、信仰対象そのものになってしまったならば、おそらくそれ自体との生きた交わりは絶たれてしまうでしょう。
このものには、科学的証明も宗教的教義も不要なのです。
この生き、働いているものを感得しているものにとって、それは自明のものだからです。
純粋に空気や日光に触れられるように、感覚出来るものです。
いや、我々がそもそも生きているという事は、このものが生きているという事なのです。
何らかの修行をしなければ、獲得出来ないというものでなく、「神秘は我々自身と離れて存在しているのではない」(ヘッシェル)のです。
マルティン・ブーバーと並ぶ、ユダヤ系哲学者A.J.ヘッシェルはあらゆる宗教、哲学思想を超えて「神の現臨」へと、我々を誘う優れた語り手です。
(手島先生の息子さんで、ユダヤ神秘主義の貴重な研究をされている手島佑郎さんは、晩年のこの現代の預言者の弟子でした。)
我々のごく日常には、至るところに言い表わしえぬものを見出すことが出来ます。
いつも、その静かな、穏やかな営みの赴くままに我々の営みをまかせていれば、時にそれが意識へと浸透して、何もかもが新たに生まれ変わる…
彼のメッセージは今、世界的規模でフタ開けし始めている、意識の目覚めを前にして、とかく”又聞き”による先入観などによって、曇らされてしまいがちな我々の精神に原初的な、原体験的な脅威、畏怖の感性を呼び覚ましてくれる道導べとなるでしょう。
いくら考えても分からないことを、分かろうとしたり、悟りや覚醒についての定見にとらわれたり、何にもまして”分かったつもり”になることは再びフタを閉めてしまうことになりかねません。
我々は何一つ分かっちゃいなかった!分かる必要も無かった!ずっと、ずっとこのものと共にいたのです!
我々が知る以前に、このものによって知られていたのです!
我々が捉える以前に、このものによって捉えられていたのです!
それでも地球は回る…回っているから回る…驚いた! 私の眼も回る…。
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