人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

開かれるということ

2022-09-01 04:27:43 | 哲学・思想
私はよく、“開かれる“という表現を使います。
これは、どういうことを言っているのかと言うと...て、書こうとしていたらそういう状態になります。開かれた状態になるということ。
このことをもし、足りない頭を使って論理的に説明しようとすると、多分閉じた状態になると思います。
これは端的に、思いを超えた方に開かれる、それが超えられずに固着してゆく方を“閉じられる“、と言っているのです。
ですから、現臨にあるということは、開かれた状態であるのは言うまでもありません。
これは、意識が自然とそのように動くということを表しているのです。
逆に、閉じられるという場合は、そこにブロックがあるということです。
“この教え以外に真理は無い!“、“あなたの前世は、○○だ!“、神に至る道には、7段階(何段階だろうと、そういう道があろうとなかろうといいじゃないか?)がある!“...あらゆる断定的な言い方に私は、ブロックを感じずにおれません。
意識を神に向ける、と又私は言いますが、それは神をイメージする、思い描くということとは少しく違います。必ずしもそれで“開かれる“とは限らないのです。
神は思いを超えたものなのだから...言い換えると、思う以前からある...だから、“自ずと向けられる“という方が本当でしょう。
では、開かれている時、何も考えていないのかというと、悟った訳でもなし、勿論そんなことはありません。(何も考えられなくなるのは、神にすっかり捉えられて、日常の意識状態で無くなり、思考機能を失った時の話です)
何も考えてなくて、こうして書いてられるか、ってんです。お筆先を書いてる訳じゃあるまいし...
私は全く論理性を欠いており、思考の組み立てが全く出来ない人間ですが、ある程度、論理的っぽい、それっぽいことを書くことも可能です。
それはしかし、その時意識が“開かれたもの“と切り離されておらず、“開かれた方“へ、その論考っぽい“ものが向けられているからなのです。
そうでなければ、そういう思考表現自体出て来ないでしょう。意識が自ずと動くということがありません。
あの孫悟空の輪っかのしめつけを待たずとも、拒絶反応が起きようというものです。
要するに、そういうものは、開かれたものあってのものなのです。
仮に、開かれていない、思考の限界内に閉じられたままの真理というものが果たしてあるのでしょうか?
そこで如何に、論理的整合性が示されようと、それだけで真理が示される、などということがあるでしょうか?
少なくとも、私の意識がそちらに動くということは無いでしょう。
そこに愛、安らぎ、リアリティといったものは感じられないから...どこにも落ち着かない真理などあるのでしょうか?
それなら、真理の追求などどっちでもいいです!...落ちることが無いのなら!

落ちた?!...これでお開き!(何でそう言うんだろ?)
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