人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えざる導師

2014-09-29 21:53:45 | ガイダンス
人はよく目に見えるもの、形あるものに確証を見出そうとします。
例えば、神がそのようなものとして現れたならば信じられるとか…
果たして本当にそうでしょうか…
私はあの真夏の黄昏のブレーン・ストームの時、その姿は何も拝することはありませんでした。
その声は言葉、音声としては何も聞くことはありませんでした。
でも…絶対に疑う事が出来ない確信を見出していました。
それは文字通り疑う事が出来なかったのです!ものの喩えではありません!
それどころか、信じるという事すらできません。
信じるという事は、何かのキッカケで一転して信じられない、という事に代わるもので実にアヤフヤなものです。
それは我々の日常の思考回路からは生まれない、純粋意識の領域でのことだったのです。
「何もかもがリアルだ」前に「現実感覚が重要」と書いたのはこの事とつながっています。
本当に確信をもたらすものは、このリアルなものを実感した…、否リアルなものがこちらを射抜いた時です。
想像とか思い描いた世界の入る余地は全く無いのです。
私がその時実感したものは本当の意味で「動かざる現実」でした。
キリスト教徒は「イエスのみ名を通して救われるなどと言いますが、私はただ「イエス!」としか応答出来ません。
「ノー!」とは決して言えないのです。
ただこの場合のイエスは否定に対する肯定といった意味では有りません。
ただ受け入れる事しか出来ない、というニュアンスです。
しかしながら、単に「究極のリアリティ」とか「意識の拡大」といった表現ではなお足りないものがあります。
その現前に、確かに強烈に生きたもの、息づいているもの、そう愛の波動が絶え間なく私を包んでいるのを感じていたからです。
この至福に預かっていた間、このものはずっと私をその愛の波動、沈黙の声で導いてくれたのです。
こんなことになる直前、私はインドの覚者ラマナ・マハルシの本を読んでいました。
そこには「本当の導師は貴方の内に居る」「神、導師、真我は同意語である」と書かれていました。
これは頷けました。
何時の頃からか、私はこのものを「見えざる導師」と呼ぶようになりました。
「内なる導師?」それも有りですけど、何が内なるもので、何が外なるものか分からないので…
彼が臨在すると、「思い」という内と外を分かつ壁が取り払われるのです。
フランスの神秘家モーリス・ズンデルは「主の臨在する時、私は私自身で居られる」と言っています。
私はこれまで一人や二人でない、様々な宗教家、教師に傾倒してきました。
しかし、生来の強固な自我はその誰にも帰依、明け渡しされることは有りませんでした。
そんな私の自我は彼の現前では、木っ端みじんになってしまいました。
その彼は今生では一度もお目にかかったことは有りません。
彼が一体誰なのか、詮索したことも有りません。
それは多分無駄な試みなのでしょう。
彼は永遠に生き通しているのですから…おそらく永久にその姿を拝することは出来ないかも知れない。
でも永久に私とともに有るでしょう…
コメント
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