人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生はリアルだ!

2014-09-15 14:45:26 | 雑感
「人生の裏側を垣間見て…」なんて書いたら、きっと早合点して「霊界、幽界を観てきたという話だろ」なんて思われるかもしれませんね。
でもあくまで表現の上ですけど、そういう事は極力書かないつもりです。あしからず。
どうでもいいことかも分かりませんが、このカテゴリーってところが引っかかってまして…スピリチュアル? ウーン、そんな世界にうかつに足を踏み入れようものなら、二度と戻ってこれなくなりそうだ(笑)
ハッキリ言えることは私は霊能者ではありません。
霊能者と呼ばれている人達には、あるいは霊界、幽界、天国や地獄、来ない先の未来、前世といったものは意味があるのかも分かりません。
でもそうでない普通の人にしたら、そういう世界はただ信じ込むしかありません。言ってみれば、空想、妄想につながるのです。
ヒドイものになりますと、自説の正しさを裏付ける根拠として「至上なる神がそう語った」「私の前世はさる偉人だった」とし、相手を非難する時は「あれは悪霊、サタンに誑かされているのだ」…もうこうなってくると我々の人間世界で語ることは困難になってきそうです。
我々は浮遊霊では無いのです。
体の一部を切れば暖かい血が流れてくるのです。
夢想ばっかりしてる人には「人生はリアルだ(ロングフェロー)!」と言いたくなります。…
偉そうなこと言って申し訳なかったですが、実はかく言う私もかつては夢想ばかりしていたのです。
そんな私をこの人間世界へ連れ戻してくれたのはある哲学との出会いでした。
どっかの教祖や先生が言ってることを鵜呑みにして、信じ込んだりしないで自分で考えることを学んだのです。
いや、それ以上にその哲学書(ベルジャーエフというロシアの哲学者)から、諸々の霊界談義からは得られないようなリアルな音信を感じ取ることが出来たと言っていいでしょう。
詳しくは述べませんが…この経験から「人生の裏側を垣間見る」道が開けたのです!その本には勿論「霊界参入の道」も「こうすれば必ず悟れる瞑想法」
といったものなど何も書かれていません。
ただ読み進んでいくうちに、何かが脳裏をかすめました。
それは物心ついた時から時折かすめるものでした。
「ひょっとしてこの見ている現実世界は夢ではないのか?」ずっと後になって気付いたのですが私はその時、夢では無い現実のなにがしかを認識していたようです。
幻想に満ちた現実世界にしろ、何にしろ「人生の裏側」へエンターするにはこの現実感覚というのはとても重要です。
何故ならば、夢想、空想、妄想からはアクセスできないから。
現実とは難しく考えなくとも、「今、ここ」にある現実のことです。
エッ、よけい難しい? 何も「意識を今ここに集中する」なんて言ってません。
有りのままの現実です。周りを探す必要なんて有りません。
そして人生の裏側の使者?がやってきたら、ちゃんと我々はその扉の前に立たされているでしょう。
ま、そんなわけで色々迷った挙句、こんなカテゴリーに決めた次第です。
あんまり小難しいことは書きませんけど…


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生の裏側

2014-09-14 20:00:55 | 雑感
我に語るなかれ、悲しげな詩篇にて、
人生はただ一つの虚しい夢なりと
何故なら眠っている魂は死んでいる
そして、物事は思われている通りではないからだ。
(H.W.ロングフェロー 人生の詩篇)

私は昨年の暮からこの夏にかけて、ある種の自伝的な文章を綴っておりました。まだ完成品とは程遠く、発表の段階ではないのですが…。
自分の人生を振り返ると、自分がこれまで為してきたこと、業績と言った観点から想起されるものと言ったら、これが何一つ思い浮かびません。
「僕は一体今まで何をして来たんだろう?」こう考えだすと、もう堪らなく空しくなってしまいます。
プロフィールってありますよね。あれを書け、と迫られるともう息苦しくなって来て仕方ありません。
あれには「あの時の夕焼け空の美しさが忘れられなかった。」とか「あの時聴いた音楽に泣けてしょうがなかった。」とか書いちゃダメなんでしょうかね…。
そうなんですよ! 私の人生の一コマ一コマに刻印されているのは、ほとんどがこのようなものなんですよ。
一言で言えば見たり、聞いたり感じたままの人生。
そして一度こうした観点から人生を眺め始めたら、もう出るわ、出るわ、何という数奇な人生なのだろうか!
我ながら魂消ちゃいますよ!「こんな世界に僕は本当に生きていたんだろうか!」と。そして又別の観点に戻ってみると「何てこたアない人生だわ」となってしまう。
これは一寸ギャップが有り過ぎなんじゃないかなあ…
しかし、たとえ私が無為無能の内に人生を過ごしてきたとしても、すべて私の生の中で起きており、その世界に私が居たというのはまぎれもない事実なのです。
こう考えると簡単に「僕の人生など所詮こんなもんだ。」などと決めつける事なんて出来やしません。
ちなみに私のプロフィール、20数年前、大学を5年で出て、一応社会人の仲間入りをしたことになってますけど…。
色々な人に聞くと社会人になるにあたっては、まあ、いっちょ前の社会人になる関門というか、何か通過儀礼のようなものを通らされるって言うんですけどねえ…。
何時そういう門を通ったのか…記憶に無いです。
ひょっとすると未だに社会人の顔じゃないのかなあ…。
そんなバカな…社会人の仮面なら昔から付けてますけどね。
こういう印象に無いものでも、プロフィールとして通用するんですかねえ…。
通過儀礼と言ったら、絶対に忘れる事の出来ない関門を通らされたことが有ります。
それはもう私にとっては驚天動地の出来事だったですよ!扉の向こうに広がっていたのは…言うなれば人生の裏側でした。
こう書いていくと、これだけである人たち(人生の裏側を見た、もしくは見ようかという人たち)にはそれが何であるか嗅覚ですぐ分かってしまうでしょう。
でも人生の表側しか知らない人たち?には申し訳ないけどこれはしばらくは…謎なのです。
この出来事は本当に私の人生に強く刻印されました。刻印。本当の意味で今もなお私の内面に刻まれています。
それは、普段は表には出てこないのですが、何かの拍子にすぐ息づいてくるのです…。
そんなことに巡り合っていても、なおその時私は何もしていなかったのですけど…。
考えてみればこんなベラボーな事ってないじゃありませんか!「こんなのが私の人生」と決めつけることなどとても出来ません。
表向きのプロフィールなんざ所詮紙切れみたいなもんじゃありませんか? そして私と同じく人生の裏側を見た人達はこぞってこう思っている筈です。
「次にあの扉をノックするのは貴方だ!その扉の向こうには知られざる貴方の人生が開けている。」と。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする