人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神、導師、真我

2017-01-20 14:25:40 | ガイダンス
私はこのブログでなるべく自分自身が感じたことを書こうとしているのですが、この事を通じて様々な事に気付かせてもらっています。
当初から考察してみようとしたのは、”見えざる導師”というミステリアスな御方のことでした。
巷では守護霊、守護神であるとか、聖霊、光の天使、ハイアーセルフ…と、それについて”こうこうこういう存在なんです”とまことしやかな?説明が付されているようですが、本当のことは…分かる訳が無い!
何を信じようと自由ですが、私はこうして書いているうちに、そのような如何にもとっつきやすい、一般受けする理解の仕方で分かったつもりになる訳には行かなくなってしまいました。
ただ、この言葉には何時も身が頷かされます。
「神、導師(ガイダンス〉、真我は同意語である」(ラマナ・マハルシ)
私は何度も”見えざる導き”について触れていますが、信仰心の深い、浅いに関わらず信奉者が信じる神というものはごくシンプルに言ってそういうものではないでしょうか?(”神は宇宙に遍在するブラーマン”とかインド人気取りは置いといて)要するに導きに肖りたくて手を合したり、お祈りをしたりするわけでしょう。ま、ご利益に肖りたいという向きもあるでしょうが…
中には神を求める事が悟りや目覚めに直結している人も居るかも知れません。神に思いを向けているうちにいつの間にか意識が昂揚して変容して行ってしまう…そしてあることに出くわすのです!
それまで神を自分の外に、信仰の対象として観ていたものが、この自己という現実の間近に、内なる光として臨み、生きているものであることが知らされるのです。
このプロセスにハタライてあるものこそが見えざる導きなのです。
この導きの光は我々の実存を照らし、開示します。そして思われたままでない自己=真我に目覚まされるのです。真我に目覚める事は神の導きというもの抜きには起こり得ないし、実は真我の目覚め自体が、神、見えざる導師の自己という現実への示現とも言えるでしょう。
このように神的なものと我々とは元々一つだったとも言えるのですが、どうして我々は神とかガイダンスなど自分の外にあるものとして認識させられているのでしょう?
それはおそらく”人間は本来神と一つのものである、私は神である”と一生懸命信じようとしているあなたは神でも真我でも無いからでしょう。
勿論エラそうなこと言っている私もですが、究極のお題目ばかし唱え続けていても、そこに自我というものと真我というものの際が無くなり、明け渡しという契機が生まれることがありません。
自己の実存が開示されることなく、その発露をデキアイの非二元信仰でフタ閉めしてしまうなど欺瞞以外の何ものでもありません。
これは何時までも教理の中に生ける主を閉じ込め続け、我々の内なる主とは何時までも没交渉のままの、デキアイの二元信仰と主張は真反対でも、デキアイでないあなたと私の現実に臨む光に導かれないという意味では同じ事ではないでしょうか?…
神、導師、真我と、あるいは超越的に表され、あるいは内在的に示されることで、我々は、あっちとこっち(所謂一元と二元)とのかい離が乗り越えられ、夢想でない、この現実において我々の本源と出会う事が出来るのでしょう。
しかし、それらにまつわる安直な言説、ことに現実遊離に誘導する言葉は何処にも導いてくれやしません。
例えば真我は前世や高次元の自分であるとか…一体そんな夢想のどこに真我が見い出されるでしょうか?
宇宙の最高神を信じたとして、あなたの実存に直接生きてハタラク事が無かれば、一体何の意味があるでしょうか?
守護の神霊とは実は今生では誰某だった…それが分かったとして、本当のあなたと一体何の関係があるでしょうか?
「神、導師、真我は同意語である」この言葉は今ここで生きている人間に意味があるのでしょう。
でもそれはどこまでも誰かによって示される訳じゃありません。
他でも無い、あなたと私の現実に開示されることなのです…。

















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天の思し召し

2017-01-19 14:08:59 | 回想
何度も書いているように私にジンジン、とある内的感覚が顕れるようになったのは昭和54年の春頃で、それから約一年半くらい続いていたのです。
この間のことは実に鮮明に思い起こすことが出来ます。
特にその感応度?の高そうな書物と巡り合って、パラパラと頁をめくるなり昂揚感で頭がボーッとしてしまったことなど、昨日のように思い出すことが出来ます。
これはただ頭の記憶というもの以外に、その内的感覚で覚えているのです。これを”身に覚える”と言っているのです。
記憶というと頭の記憶のことばかりと思われがちですが、実際は視覚(景色など)や聴覚(音楽など〉、嗅覚(どっかでこれが最も強い記憶作用を持っている、と言っていた気がしますが、その通りだと思います。)を借りていたリするのですね。
でも、そのどれでも無い、単なる肉体でも精神でも、霊感的?でもない(要するに適当な言葉が無いということ)この感覚程現在に直結して覚えられるものはありません。そうです、それは”現実に臨む”ものなのですから!
それでは、昭和55年夏、その感覚が消えてしまってから以降のことは…
ウ~ン…これがよく思い出せません!
その夏の東京は季節外れの低温続きで、どんよりとした曇り空が何日も続いていたのは覚えています。青年期特有の煩悩がまるでその天候のように精神を覆うようになり、いつの間にかその感覚は灰色の空に消えて行ってしまったのです。
今でこそ、ずっと私の内部で恒常的に息づいているように感ぜられるそれが、本当にパッタリと消えてしまったのです。
生き生きと思い出せないという事は、取りも直さず生き生きとした生き方をしていなかった、という事でしょう…
その一年半ばかしの間、”私は何かに守られている”と感じていたものでしたが、忽然と”見放されてしまった”ようになり、高性能霊的感応探知機?も使えなくなってしまいました。
それからというもの何か自分の人生も見ている世界も急に色褪せてきたようでした。
加えて、昭和56年冬、就職のため関西に拠点を移すことになるのですが、不慣れな環境、初めての社会人生活(信じられないような、笑うべき世間知らずでした)などが暫く日々を重々しいものにしていました。
そもそもどうしてその感覚がある時(それは祈りと静坐に負っているらしい)芽生え、また消失したように感じてしまうのでしょうか?
これはおそらく、私の守護霊、ガイダンスと思しき存在(見えざる導師)からのギフト(賜物、与えられるもの)だと意識づけられていたからだと思います。
修行らしきことは僅かに中国道院に伝わる静坐を少ししていた程度でしたが、修行して獲得したものとは全く意識していなかったのです。
これは、私の意識が遠のいていくという、精神的苦境から救われた、という経緯からもそのように感じられたのでしょう。
こういう事からも意識の在り方というものが実に大きいものがある、という事が知られます。
そして、私が人生の裏側を垣間見たのは、昭和58年のことでしたが、この前後の記憶というものもあまり鮮明でありません。あの感覚は依然として眠ったままでしたので。
何故、突然ああいう事が起きたのかもよく分かりません。
ただその強烈な体験が唐突にやって来て、唐突に去って行ったように感じたのはよく分かる気がします。それもギフトと思っていたからでしょう。
そして、その失せてしまったものを追いかけようとしたことも有りましたが、一方(より自分の深部)では…”これはギフトなのだからいくらこちらが望んでも、天の思し召しに適わなかったらしょうがない…”という思いもあったのです。
”お前が獲得したりするものでも、お前の持ち物でもないんだよ!”という促しと共に…私はつくづく思います。こういうものが導きというものなんだ、と…
それから十数年後、この事がホントに腑に落ちてから、恒常的に息づいているものを身に覚えるようになったのです。














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中間的なもの

2017-01-16 17:05:24 | スピリチュアル?
スピ系ネットで”宇宙に全てをゆだねる”という言説を見かけます。
私もゆだねる、全託という事にしばしば触れていますが、上記の言葉から大いなるものにゆだねる、といったニュアンスは伝わってくるものの、実際のところ、宇宙とか空々漠々たるものにゆだねるって感じ掴めますか?
雲を掴むような感じじゃありませんか?
何が何にゆだねるのか…ゆだねようが無いという感じになりゃしないでしょうか?
いや、そもそも掴もうとしたら、ゆだねることなど出来ません! ゆだねるとは手を放す事なんですから…
だけど…大いなる宇宙のようなものが漠然と広がっているだけだったら…とにかく取っ掛かりとなるものを求め、それに”ゆだねようとするつもり”になるんじゃないでしょうか?
”ゆだねる”ということは、ゆだねさせてくれるものなしに生まれないのです。こちらからはゆだねることが出来ないのです。
この事が抜け落ちるとゆだねる事が意志的行為になったり、何かのメソッドになったりして、かえって直接的有り様からかけ離れたものになってしまいます。中間に余計なものがくっつくように…実に中途半端なことです。
”ゆだね”の取っ掛かりになるものは、こっちにはなくてあっちからハタライてくるのです。
捉えるんじゃなくて、捉えられる、ということです。
このハタラキはあたかも漠たる空から稲妻のようにこちらに切り込んでくるようなものです。
空漠たるもの自体からはハタラキというものが分かりませんが、こちらにその焦点、通路が生じ、そのエネルギーというものが知られるのです。
私は何故、多くのノンデュアリティ系スピではいつもこんな分かり切ったことを伝えていないのか不思議に思えてしょうがありません。
中間が無いという感じです。中間、中心…それはこちらから取ってつけるようなものじゃなく、元々あって、ある契機に明かされるものでしょう。
そこに二元的世界と非二元的世界とのつなぎ目が曖昧になってしまう要因が有るようです。
非二元という命題に依りかかろうとしているのでしょうか…(一方で二元的な神に依りかかってきたように…) 
何か二元的なものを連想させる神的なものを否定しているようにも思えます
私が言うハタラキとは神的なものと言い表せど、勿論神そのものかどうかは分かりません。
その他守護神、守護霊、聖霊、真我…どれでもあって、どれでも無い…何でもいいのです。千古の謎なのですから。
中間というものは曖昧なものですからね。中心というと、”これが中心!”と言い張ると、それを巡って無駄な論争が起こる種ですが、観方を変えれば、”こうだ”と決まられないもので、やはり曖昧なものなのでしょう。
だが、このハタラキが現臨すると”自分の中に中心があり、自分は中心にある”という内的実感が生まれます。だが重ね重ね”これが…”とは言えません。このものあっての中心なのです。
取っ掛かりはこの手で掴むことが出来ない…掴まれているのです。
そして子猫が親猫に首根っこを捉えられることでそうなってしまうように、安心して身をゆだねることが出来るのです。
全幅の信頼というものがあるからです。又その人なりの絶対的帰趨のようなものも生まれます。
こう考えると、我々は中心と感じているものは、非二元的なものにも二元的なものにもあるのでなく、まさにこの中間、つないでいるものに有るようにも感じられてくるのです。中間的なものと曖昧に感じるものこそが、顕わになって我々を有らしめるものとなるのではないでしょうか…
それがこれまでは安易に神という存在に置き換えられ、それを信じるという事だけで関わりが持てる、といった抽象観念によってベールが掛けられてきたのでしょう。
年も明けてビリビリ、ジンジンと我々の実相が明らかになってくるのを感じます。
これは静電気やリューマチの所為ではないでしょう…。













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善と悪

2017-01-14 14:04:10 | スピリチュアル?
宗教やスピに関わっている人たちの心理ほど”ぐちゃぐちゃ”なものはありません。
ことに”善いこと、悪いこと”を巡ってかくも混乱した様相を浮き彫りにしているものは他の世界では無いと言ってもいいでしょう。
原理主義的なキリスト教などでは、比較的神=善、サタン=悪といった分かり易い相対的な二元論が見られるものですが、何故神が善で、サタンが悪なのかという事について考えられることはあまりなく、ただ善良で正しそうな人が聖書などに依拠しながらそう語っていることをそう信じ込んでいるだけのようです。
これには多くの人が指摘しているように、幼少の頃”コワイお父さん”が言っていたことで心に根付かれていたものが、呼び起され強く意識づけられていくようです。
父なる神と言ったり、聖職者を神父と呼んだりするのもこの事と無関係ではないでしょう。
この点でややこしくなるのは、比較的新しい宗教やスピで、心の奥に根付いた善悪の葛藤が未消化のままで、”善も悪も無い”という信仰が持ち込まれることです。とにかく信者の心理で根強いのはその教えなりを”信じる事は善いこと”で、”疑う事は悪いこと”なのです。(これは人ごとでなく自分で経験していることです)
だから…これでいくと”善悪が無い”のが善いことで、善悪二元論は悪いことになりそうです。
しかし、思いの根っこには善悪の捉われはそのままになっていたりするのです。
こんなところから光一元であるはずの教えの信奉者の中から闇の勢力、フリーメーソン、イリュミナティなどの陰謀論が生み出されていくようです。
それは又、前世、高次元の世界、来ない先の世界についての信仰と結びついているものです。
そして、善なる神への信仰といい、闇、サタン(こっちの方が強固だったりします)への信仰といい、頑なものになりやすいです。
こういう思念というものは総じて自己自身には向けられることがありません。
外向きには自分を善なるもの、正しいものに見せていながらも、内心では悪なるものと感じているからでしょうか…
いつも言うように、これでは自己信頼というものが生まれないのです。
信者たちも一応は教師が語っている様に悟り、本心を開くことを思ったりもするでしょうし、日頃のルーティンを繰り返していたら何時かはそうなる、と信じているのでしょう。
だったら…自己に意識が向かず、かえってそこから遊離させてしまう(本当の現実遊離)ような思念は手放さなきゃ…精神的目覚めとは自己の実存に光が照らされ、浸透することに他ならないのですから…あなたの先生はきっと泣いてますよ…
悪いですねえ…それは悪いことです!
善と悪には倫理とかモラルというものが付き物ですが、私はこれが人間の心理を混み入ったものにしてしまう”悪の元凶”?だと思っています。
”オカルトにハマって何が悪い?”悪くないです。”正しいと信じている教えを信じて何が悪い?”悪くないです。それ自体は。
誤解しないで欲しいことは、もし精神的目覚めとかを問題にし、目差そうとするのなら、それらは脇に置く必要があると言っているまでで、それを”捨てちゃえ”と言っている訳ではありません。何故手放さなければならない(捨てることじゃない)かと言ったら、上述した理由で本心を開く上では不都合だからです。
高血圧の人が塩気のある物ばかり食べるのは悪いことです。体に悪い…高血圧には不都合なことなのです。
何で悪いことなのか、ロクに考えることなく、信仰に依存してしまうのは悪いこと? 主体的に生きるには不都合なことです。
主体とは、自分自身というより、自分の主となるものだと思います。
このように悪いこととされているものには、何らかの不都合な理由な存しているものなのです。
我々の精神は何と、物心ついた頃から上からの”見える”力(エラそうな人)から理不尽で、暴力的な善悪の観念を背負いこまされ、傷つけられてきたことでしょう。
それは思われたように善でも悪でもないものなのです。
この固着した思いは、上よりの見えない力によって、解放されます。
分かり切ったことは、こんな善いことを拒むことが悪いことなのです…。






















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ジャッジをジャッジする

2017-01-12 00:10:22 | 雑感
”人を無暗にジャッジすべきじゃありません!
そんなことしてたら、ネガティブな波動を引き付けちゃいますよ…
自分もその相手と同じレベルになってしまいますよ…
あなたにもその相手と同じものが有るから、そうしちゃうんですよ…”

あ、そう…分かってますよ!(そのつもり)
分かったから、そんなにジャッジすることをジャッジしないで下さい…

スピにまつわる何やらの法則めいたものほどアテにならないものは無いとは言え、そういうような身に覚えは確かにあります。どんなことでもそうですが、気付いていること、自覚することが大切だと思います。
この相対二元世界で生きている限り、人はどうしたってジャッジしてしまうものです。こうして言葉に表している以上、それは免れる事など出来ないハズです。例えば非二元を強調すれば、二元をジャッジし…という具合に…
こういう事とは別の話ですが、以前クエーカーの集会で私は何度か、普段はなるべく穏便に?礼拝会をより生き生きしたものにしようと提起したことがありました。”聖霊、命に預かることがどういう事なのか、聖霊と共なる礼拝会がどういうものか、今一度立ち返ってみようではありませんか?”と…
一度だけある時の集会で何だかキナ臭く、氷ついたような空気が覆ったようになりました。その時は、語気を強めてよりシビアーにこの事を迫ったからです。集会員の何人かは、私がまるで罪を糾弾しているように感じたようです。「あなた方を責めるのは本意ではない」と言いましたが、責めていたかもしれません。
これはやはり批判になりますか?…ずうーっと私は不満を抱きながら耐え忍んで、生ぬるい(私はそう感じているまで)礼拝会に甘んじてなけりゃなりませんか?…そして私の中から、抗し難いエネルギーの噴出が理性の静止を振り切って、飛び出して来たなら…起こるに任すしかないだろう…たとえどんな非難を受けようとも、どんな泥をかぶっても…(実際のところ理性の堤防が決壊したのは、覚えている限りでは一度しかありません)
ナレアイのままでいいのでしょうか? いいと言うのならこの世の終わりまで続けていたらいいです。私は”もう、真っ平御免!”…こういうところは私の忍耐の無さ、不寛容さ(この寛容さと裏表の私の性質は多分、このブログに随所に反映されているでしょう)という弱さの表れであると自覚しています。ま、ものには言い方、表し方っていうものがあるということですね。ともあれジャッジをするという事は因縁をつけているという事です。因縁をかぶるという覚悟も必要でしょう。これも自覚の問題ですね。

”我々の思いを超えた裏側の世界には善も悪も、どっちが上も、下も無い…”その通り…ただ太陽の如き、光に遍く照らされる、ということがあるばかりです。すべての物は同じ光に預かり、浴しているのです。
光に照らされ、映し出されるがままのことをしているのです。この現実は表れの世界、まさに照らされるがままに映し出されている、善と見え、悪と見え、賢く見え、オバカに見え…だから本当には人は人のことを裁くことなど出来ないのでしょう。自分を裁くことと同じことだという事ですね。
この世とは我々を通じて、ものすごーく複雑な、デコボコした経路を通りながらも彼の世界の真実が映し出され、又写していく場である、という事ではないでしょうか?
上記のような根源的な事がそのまま二元的現実に展開される訳も無く、混同されたり、安易な信仰に置き換えられてしまう事で欺瞞も生じてきます。
例えば、外に向けて批判的な言辞をしていながら、自分に批判が向けられたら”善も悪も無い…”と言い放つとか。
我々は根源的なものにつながりながら、この表れの世界に生きている事を示されているのでしょう。
これはあくまでそれぞれの視点においてですが、その映し出されたものに違和感なり、ズレなりを感じたならば物言い、ジャッジというものは当然起きてくるものだと思います。我々は表さなければならない生き物なのです!そして表れたものには光と闇が有るのです。…というか、こういう話自体、高尚な精神的な道以外では全く問題にされる事の無いことです。すべてノージャッジで通るならこんな世界にゃ居ません!(裁判所もポリスも要らない…批評家はとっとと失せろ!)
こういう事をなるべく基調にして、言葉が過ぎた、とか足りなかったとか気付いたら、なるべく自覚をもって…なるべく…
我々は神じゃないですから…

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