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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私は神じゃない

2017-01-09 12:00:39 | 雑感
私は神じゃない…

”分かり切った事言うな! お前のようにみすぼらしい、無知無能な神が居てたまるか!”
いや、全くその通りで有り過ぎるお話です。
私はこのブログではなるべく自分自身が見て、感じたことを伝えようとしています。
実に沢山の有名無名の人名が登場しますが、この理由の一つは、お借りしたもの、縁というものに敬意を表し、自分自身が見て、感じた有り様と区別するためです。なるべくですが…
”なるべく”というのは、時に何ものかのフリをしてしまう事も有る、という事です。
間違ったことを伝えてしまうことだってあるでしょう。
又、このところずっと考えさせられていたことなんですけど、意識的にか、そうでなくか偉そうに人をジャッジしてしまう事も有ります。
だって私は神じゃないから…(神とは思われているように裁いたりしないのでは?)
もしもそのように出過ぎていたり、足らないものを感じられたら、あれはそういう人間なんだと思っていただければ結構なのです。こういう事は言わずもがなのこと…何でしょ?
言い訳がましい逆説みたいですが、こういうありのままのことが伝われば…というかこれは表れ出ちゃったものが伝わっちゃった、ということが伝わっているハズなんです!
それが人間てもんじゃないですか?(オモロイでんなあ…)

”私という個人はいない、全体が有るだけ、全ては完璧、起こるべきことが起こるだけ”
スピ界には相も変わらず神サマ気取りが多いですね。
自分もこの二元的現実世界を飛び越え、非二元、一なる世界の住人になったと決め込み、他人も間の世界に引き込もうとする…
これ悪しき現実(これは取りも直さず問題だらけの自己)から離れ、無きものにしたい教師と信者とのなれ合いですね。
この見える現実世界はそのデキアイの信仰によって覆い隠され、ますます”見えなくされていきます”。
教師たちはもし、彼らが語るそのエンライトメントというものに預かっているとしたら、”この現実”と”かの現実”にある橋渡しが有ったことに気付いているハズです。でなければその内実はすべて否定されてしまう事になるでしょう。そもそもの”契機”というものが否定されてしまうから…
そして彼らが行き着いたであろう、非人間的境地に固執するとき、その橋渡し、虹の架け橋?は蔑ろにされてしまうのでしょうか?
如何なる二元性も克服されなければ悟った人”を演じることは出来なくなるから…ノンデュアリティのステータスがかかっているから?…
この相対的現実世界では正しく相対…見たままの有の世界に捉われる事で様々な軋轢を引き起こしています。
だが、多くの非二元の教師たちは無の世界に捉われているようです。捉われるという事自体相対的に生きている証拠なのです。
そして伝道を始めます…
”何も問題は無いですよ…私たちは元々悟っている、神なんですよ…”
問題だらけの自己を抱え込み、無きものにしたい人は容易くかかる信仰に眩惑されてしまいます。
しかし思われただけの、信じ込んだだけの信仰自体には如何なる契機も生まれません。
”私は神、すべては神、肉体も物質も二元性も無い”こういう暗示信仰を何十年繰り返したところで、あなたの目の前の現実はガンとして動きやしません!
そして消えて行ったハズのものが、その実フタをされただけの問題だらけの思いはその飽和点を越え、巷に溢れかえっているという様相を呈しています。人間とはかくのごとく、どこまでも完璧なものでなく、救いを要するものです。
この世界とかの世界の橋渡し…その契機となるそのもの無くしては寸時も生きられないもの…生けるハタラキあっての我々なのです。
このものは見える現実と見えない現実(何処にも逃げる事も、隠れることも出来ない自己そのもの)の橋渡しであり、そのすべてを照らし出します。
目をそむけたくなるような問題だらけの自分に、自分では出来なくとも、ハタラキによって光が当たるのです。
そして罪の裁きは許しへと変貌します。現実自体が消えたり、より高いものになるのでなく、観方、感じ方が変わるのです。
そのドラマの舞台はこの現実をおいて他にはありません。
人間とはこの見えない架け橋の真ん中に居るのでしょう…人とは何かの間何だ…だから…
私は神じゃない…







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ハートと祈り

2017-01-08 12:36:42 | 祈りと瞑想
人は宗教、思想、スピを通じて真理を追及し、見出そうとするものです。
私も時に冷徹な、妥協の無いまでにそれに駆り立てられることも有ります。
けれども…もし、究極の真理というものが目の前にあったとして、すぐ横で子猫ちゃんなりが愛を訴えていたとしたら…
おそらく、子猫ちゃんの方に向かう事でしょう…
私のことをよく知っている人が聞いたら、笑ってイスから転げ落ちるかも知れませんが…
”あなたはゾッとするほど冷たい人だ…”と言う声も聞いた事が有ります。
しかし、愛が無ければ…どんなに高遠な真理だろうと、それのみがあの恩寵の光の臨在には導いてはくれないのです。
真理と愛というのは別個のものでない、というのも”真理”かも知れません。
表れは別のものでも、深部ではつながっているものだから…
しかし、それでも愛が無ければ…
”一体、どうすれば恩寵の光を受けられるのですか?”とは何人かの人に訊かれました。
しかしですねえ…愛の道を何かの方法論、メソッドにスリ代えるってのは、愛の道にもとることなんじゃないですか?
どうやったら、映画を観て、音楽を聴いて、感動することが出来ますか?
どうやったら、好きな人に胸キュン出来ますか?
実にズレた話です。訊くだけ野暮なことでしょう。
まあ、言うのも野暮な事なんですが…そういう事はあなたのハートに聞いてみろ、という事なんです。
瞑想愛好家の人はハートのチャクラを開くのに余念のない人も居られることでしょう。
(余談ですが、ハートに限らず、チャクラとかクンダリーニの何たるかなど知らない人のほうが圧倒的に多く宗教的回心や覚醒に預かっていると思います。その行者でない人、昔の人皆そうです。別にその事を否定しませんが…)
私と違って?見た目も中身もアイスマンの人は野暮な事も必要なのかも知れません。
強いてやり方を示すとすれば私は”祈ること”だと思います。
どうやって祈るのか?って…また野暮なことを!
方法とか祈りの文句とか効き目などに捉われている人は”祈り心”を知らない人です。
文句とか効き目などというのは呪文とかの話じゃないですか?…こんなところから祈りというものがある目的に据えられてしまい、念力的なものに変質してしまうのでしょう。
どうしても、こうしても私は最善、最愛のお方に会わずに居れない、引き付けられずに居れない、命を投げ出すに居れない…真心の発露…
ここにやり方も効き目もヘチマもあるもんですか!…私は最善、最愛のものを二義以下のものに絶対に貶めたくはありません!(いや、ほんとに愛と真理というのは分けられないものです!)
これはハートで感じていることなのです。ハートとは全ての私の焦点です。焦点と言っても、こことか、どこそこにそれが有るとは言えません!意識を集中するどこかのことではありません! ハートで感じる事で自ずと”見えざる中心へと意識が集まる”のです。
真理が何かが分からなくなって迷うような事が有っても、その焦点に立ち返ることで自分を取り戻すことが出来ます。
だから真理と愛は同じだけれど、真理は愛に譲らなければならないのです!
最善、最愛のものとは、今現在あなたがそう感じているもののことで、そこにあなたが本当につながるべき最善、最愛のもの(神かも、真我かもしれない)が隠れているのです。ハートからなる祈りによってそのものが呼び覚まされるのです。
ラマナ・マハルシは「ハート(チャクラでは無い)こそは真我の座である」と言いました。ラマナがジュニアーナ(真我の探究〉の道と並んで帰依(明け渡し)の道を唱道したのも実に分かる気がします。

友よ!…私はそんなに冷酷に見えるのか…どんなに冷酷非常なものを映し出しても…私は最後には泣いてしまうよ…。




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依存と帰依

2017-01-07 12:39:20 | 求道、探究
反スピ、脱スピなどから散々宗教依存、スピ依存について取り沙汰されたりしますが、人間には依存は付き物と言ってもよく、現実生活で雁字搦めになっている人は脱現世依存からスピに赴いたりするわけです。この依存ってこと自体悪かろうはずが有りません。
人間を初めあらゆるものが相依り合って生きているものです。
私がここで取り上げるものは、主体性無く短絡的に他に”依りかかってしまう”という精神の有り様のことです。
それはよく現実逃避と結び付けられるものですが、それは取りも直さず現に考え、味わい、感じて生きている自己…主体からの逃避ではないでしょうか? 現にここに生きている主体を蔑ろにして、神や教祖や教えなど外なる権威に丸投げして取りすがろう、とするのです。そしてとにかく無批判に信じ込み、捉われた思念で頭がいっぱい…元々与えられている考え、感じる機能を封じ込むように…これではいつまでも経っても”現前に現実は開かれてきません”。
自立心の欠如などとも言われますが、一人の独一無比の人格が外なる権威への迎合の前に押しやられているのです。
これは繰り返し言うように自己信頼の欠如からくるのです! 
自分を愛し、許し、信じることが出来ない…
最近では色んな人が言っているので耳にタコが出来るでしょうが、今巷で自己を受け容れられないところからくる満たされない思いが、暴風のように吹き荒れている様相を見せられているようで、言わずに居れない気持ちにさせられます。
そしてこの自己信頼を抜きに覚醒などを目指すなんてことは、自殺行為に等しいものです!
主体性を欠いた空洞化した精神に外なる神(これは神ならぬもの)の侵入を許してしまう…主体性は別の何ものかに乗っ取られるに至る。これは洗脳のプロセスです。覚醒というものが霊的進化とか何かの目的に据えられる時、歪められた精神が介入します。
これを目論む悪質な集団もありますが、自己不信から自ら陥ってしまう者も後を絶ちません。この事は自殺の増加と無関係ではないでしょう。
この主体性を欠いた依存と紙一重なもので帰依というものがあります。
帰依と言っても、ここでは単なる信仰の拠り所とする以上の托身、明け渡しという事を含めて言っています。
この明け渡しの契機には、自己否定が有ります。自己は無きものにされなければならない…
”は?…自己否定…自己信頼、自己肯定ではないの?”
そうですね…意味は反対でも同じことです。それまで限られた思いの中でこうである、何であるという自分の否定です。
そういう事は限られた自分の思い、力では出来得ません! そうさせる、あらしめるものに任せるっきゃありません!
”だけど、この現に生きている自分のことはどうなるの…” そう、まあ…しかしですね、あなたはこれまでホントに”私は現に生きている、私はここにいる”という実感を持ったことなどあるでしょうか?
恩寵、現臨のハタラキというのは、我々に部分的にハタラクのではなく、全的にハタラクのです。
このものに有って初めて我々は全身、全霊的なものとなれるのです。
あなたの思われたものでない、自己そのもの、大本の自己への全き信頼が呼び覚まされるのです。
自己への信頼と現臨への信頼とは切り離されるものでは有りません。天来の火と内なる火はつながっているから…
宗教的帰依、明け渡しの道は、宗教的依存のように見えて実は極めて主体的な有り様であり、天と地ほどもかけ離れているのです。
特別な帰依の対象が有ろうとなかろうと、我々が最善、最愛に感じられるものへの帰依こそは、主体性の回復、真の自己の回復につながるものと言えるでしょう。
帰依の感情が深まれば、自分が愛されている、あちらに呼び起されている、という実感を持つようになります。それに合わされることで、この愛と切り離された覚醒モドキでない、明け渡しの契機も生まれることでしょう。









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悪魔からの手紙

2017-01-06 11:46:33 | 独語
親愛なるTさん
日々の求道、まことにご苦労さまです。
あなたのブログによると、ここ数日の間、年の変わり目に合わせたように何らかの気付きがあったようですね。
何でも、それはあなたが”ギマンだらけ”の「虚空全史」なる本に触れたことに由来するとか…
ずっと何十年も五井先生に依存してきたあなたが、ある時は脱線して某太平ブログに依存し、今度は又虚空氏に依存して何か仕入れた情報を発信するようですね。
私が依存云々というのは、あなたは他所で借りてきたものを内省し、咀嚼することなくそのまま受け売りして、未消化のまま合点して有識に取り込み、外に発信してしまうところが見て取れるからです。
そして虚空氏の求道過程で出会った導師的存在が、五井先生、カルロス・カスタネダ=ドン・ファン、ニサルガダッタ・マハラジだった、という理由で今度は後の二人についても、にわか勉強を始めようという訳ですか…何という愚かしさだろう…
私は虚空氏と違って近未来世界のことは分かりませんが、誓って予言します!…もしもあなたが腰を入れてそれらに取り組むならば、数日のうちにあなたは挫折するだろう…”つまみ食いしてみました”、という程度ならいざ知らず…
私はドン・フアンにもマハラジにも触れていますが、正直言ってあなたの”妄想事満載”のブログには全くふさわしくない、場違いという印象しか受けません。
私もブログで書いているように、何にせよ”虚心坦懐”に学ぼうとするのは実に、意義があることですし、得難い気付きを受けることも有ります。それはしかし、あくまで”虚心に”という事です。妄想事で頭がいっぱいになっていたらそれらはひとまず脇へ置かなければなりません。
そうでなければドン・ファンにせよマハラジにせよ、あなたの妄想事を飾る道具に貶められてしまう事でしょう…
そして今あなたは、かつて私と共に学んでいた時には、一度も触れる事の無かった”覚醒”へと向かおうとしているのですか…御冗談でしょう!
もし、あなたが心酔している五井先生があなたの前に居たらこう言い放つことでしょう…
”中途半端ならおやめなさい!”
いつも観念の上滑りばかりしている、あなたには、有体に言って覚醒に向かう土壌は出来ていないようだ。あなたはここ最近、覚悟を決めたそうですが、覚醒の道に歩み出すことで、廃人になる覚悟でも出来たのですか!
覚醒の道は子供じみた興味本位の精神の火遊びなんかじゃないのです!
私はこの道にまつわる喜ばしくない実例をいくつか見てきているのです!
だからあなたの中の五井先生に成り代わって言いたい!
”中途半端ならおやめなさい!”
私だって多くの人が目覚めたら、世界も人類も目覚めると感じているし、時にそう書いても居ます。でも手放しでそういう事を言っているんじゃありません!目覚めというのは、神的なものの前に自分が砕け、無にされる(観念事じゃないですよ)という事を何度も書いています。
これは五井先生の”消えてゆく姿”の道に通うことだと私は理解しています。
私はあなたと違って五井先生一筋の道を歩んでこなかったので、とても偉そうに言えませんが、多分私と同じころ五井先生と出会ったであろう、あなたが歩んだ道を今一度振り返ってみてはいかがですか?
観念の上滑りで何を学んでも観念で分かったつもりになるだけです。
でも私は3年ばかし前、カラオケ店であなたが涙ながらに五井先生のことを語っていたのをよーく覚えています。
あなたの中に理屈抜きに惹かれてやまない五井先生が息づいているのです。
深く共感することと依存とは全く違うものです。
どうか今一度深い祈りの中であなたの中の五井先生に出会ってください!
あなたにとりそれがもっとも安全で確実な目覚めのプロセスとなると感じています。
そして、もうあなたの中の五井先生を裏切らないでください!

勝手な事を一歩的に書いてしまって相済みません
このブログで時折、卑怯にも心無く呟いてしまって重ね重ね申し訳ありません
もう悪態をつくのはオシマイにします…私の中の悪魔もくたびれたようです
とりあえず心を落ち着かせるのが一番ですね…何だか外も明るくなってきたようです
あなたの平安を祈ります
世界人類が平和でありますように

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霊と体

2017-01-04 10:58:12 | 哲学・思想
スピ界で「ルドルフ・シュタイナー」の名を知らない人は居ないと思います。
私は決して熱心な読者という訳ではありませんが、十数冊は本を読んでいます。
読んでいて”オオっ!こ、これはちょっと看過することは出来ないな…”と言う気にさせられる文脈に出会う事も確かに多いですが、一方で”ああ、イカン…また例の言い回しに煙に巻かれてしまう…”という気分にもさせられるなど、シュタイナーって人は私にはどうも掴みづらい存在なのです。それは取りも直さずオカルト(世間ではオカルトの類などと揶揄されることの多いこの分野を堂々と看板にしているのは神智学と、その分家であるこの人智学ぐらいのものでしょう)というものが私の中でこのように微妙な感覚をもたげさせるもののようです。とにかくそこには見えるもの、見えないものとが複雑に絡み合い、錯そうしているというように思えてならないのです。
で、このシュタイナーの教説で無視出来ないと感じたものの一つに、我々が霊的認識の道(これが前提)を歩む上で、ある二つの方面から誘惑が待ち受けているのであると…それがアーリマンとルシファー(ルチフェル)と呼ばれる見えない存在とされます。
アーリマンとは我々の精神をこの見える現実世界、物質世界と結び付け、上方世界との関係を断ち切ろうと働きかける存在とのことです。
”物質、肉体は悪、これにまつわる思いはサタンの誑かし…”という古来から広く蔓延している宗教、精神世界の偏った観方をすぐ想起出来るように分かりやすいものかも知れません。
一方、ルシファーというのは、逆にこの現実世界から魂の感情を超え出させ、引き離そうとする、つまり霊化させる働きなのだそうです。
一寸聞くとこれは、善なる霊の働きかと思ってしまいますが、私は最近のスピ界に蔓延している二元的現実世界を飛び越え、無意味なものにしようとする動きにこうした誘惑が見てとれるかと思います。
だからと言って私は”おい、物資主義者ども、お前らはアーリマンの邪悪な霊に憑りつかれてんだゾ!”とか”おい、ユルフワお花畑の住人、お前らはルシファーのもたらす幻想に眠りこけてんだゾ!”など背後霊的なものを担いでまで物言いを垂れようとする気などありません。
シュタイナーも言っているように、これらの見えない存在とは元来悪魔的働きでは無いのです。
それらのことを持ち出さなくとも、そうした作用のことはごく自然に理解出来ます。誰もがこの世に生まれてきて、物質的な面で制約を受け、束縛を受けているが、それから解き放たれたい、自由になりたいと望むものです。
又、誰だって瞑想ばかりして、三昧に浸ってばかりしていても、メシが食えなくなることぐらい分かっているハズです。浮世は確かにツラく、時に抜け出したくなるもの…されど、シャバでなければ味わえない、喜び、楽しみというものもあるじゃないですか…
要するに偏らなければ、固着しなければいいって事ですね。
このシュタイナーの説明というのは、精神の物質偏重、霊的なもの偏重への警鐘なのか、とも思えるのですが…しかし、これには単純な霊と物質の二元論では収まらない問題が横たわっているように感じられるのです。
霊なるハタラキについて私は何度か触れていますが、実は霊能者でない私は、当然のことながら霊そのものの領域というものは知らないし、見たことも感じたことも有りません! この意味で霊なる云々というのは単なる修辞句と思って差しつかえありません。(普通でない、”霊妙”なのは確かです)
それがハタラく時、確かに現世的な捉われから心身共に解き放たれる、という実感を持ちます。時にこの世の時間で数十分、エクスタシーに見舞われることも有ります。しかしながら、見えない世界に引きずられ、現実世界から引き離され戻って来れなくなるような誘惑を受けたことは一度もありません。
一時的に現実感覚が希薄になり、遠退いて行く事態に見舞われたことはあります。だが、ハッキリ覚えています、現実に連れ戻してくれたのはあのハタラキなのです。それと共にある時現実感覚から離れる事は無く、日常にもましてそれが研ぎ澄まされたものになります。
そして、感じるのは精神、霊なるものと肉体は一つのものなのだ、という事です。
私が”身に覚える”と意味不明の伝わりにくい言葉を借りるのも、精神的なものでも肉体的なものでも無い、”トータル”な感覚のことを言い表しているのです! このように私にとり、霊なるハタラキとは別々に分かれたものを統合、調和させるものなのです。
霊があり、肉体があり、肉体は霊の入れ物という先入観に捉われがちになりますが、元々霊肉一体のものなのでしょう
「身と魂分かれてないぞ、両方あってミタマぞ」(日月神示)
見えるものに捉われ、見えないものに捉われ、偏るのは、畢竟そうした偏った、過ぎたり、及ばなかったりする”思い”の作用ではないでしょうか?
シュタイナーによればアーリマンやルシファーの働きは現実界と四大界?(ある時はエーテル界?)にしか作用しないのだとか?

何だ?四大界、エーテル界って?…エーテルで眠らそうったってそうはいかない…。




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