人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

知られざる、知られている我

2019-04-20 11:05:36 | スピリチュアル
"何か啓示のようなものが訪れたとして、それが神や真我からくるのか、自我から来るのか分からない..."
"そういうものがあると、これまで自分が後生大事に思っていたものが取り去られ、全然別のものに取って代えられてしまうのでは? 知らない自分になってしまうようでコワイ..."

うん、ある、ある...私もその時がやって来るまではそんなでした。
その時...初めて神の手がかかった時のことです。体も心も自由が効かなくなって、そう、全くこれまで経験したことの無い、別なる意識状態に変容させられた時です。
それが真我、神我なのかどうかは分からない...しかし、もはや思われた我では無くなっていた...
これは、そうなった時、自ずから分かります。
"それが真我なのか、自我なのか、どっちなんだろう..."とか考えているんでしたら、それはそうなっていない、ということです。思われた我がそう考えているんですから...
そこではもはや理性的に判断する余地がありません。真我だろうが、自我だろうが、あるいはサタンだろうが、そこで目の当たりにしたものを受け入れるしかないのですi
しかし、そこでこのようにキョーレツに実感されるものがあります。"こんなにも、[この私❳というものを目の当たりにしたことなどかつてあっただろうかi"
この私...いままで私と思っていたものは、他のものが、世の中がそう言っているものの反映に過ぎなかったのではないか?
私は感じている...他のもののフィルターを通したもの、覆いが掛けられたものでなく、何ものにもよらず、この私自体から感じている...
知らなかったi 思われた私のうちにこんな私が隠れていたとはi"
この私は、まさしく知られざる我です。思われた私がすべてと思い込んでいる自分にとっては...
真我的なものが神的なものと結びつけられていた理由がよく分かります。とにかく思いを超えているのですから...
しかし、それはとっくに知られていたのですi ことごとくが...表層的自己の奥で。
超越的なものは、内在的なものであった。
全く未知の、超越的なものでありながら、何一つこちらに遮ろうとするものがありません。私は一つにならざるを得ない、全く私というものは一なるものなのであったi
そこで、"何と思われた私というものは、分裂したものであったか"、ということが分からされるのです。
そして、まるで鉄分が磁石に引き付けられるように、一なる中心に意識が集まってくる...
無条件とか、惹かれてやまないものというのは、こういうことを言うのです。
だって...それが"本当の自分"のことなんだから当たり前ではありませんかi あなたと別の何ものかでは無いのです。
このものと一つになるのなら、後生大事にしているものを手放しても構わない...最善、最愛のものには代えられないから...
コワイ、恐れるものなど何一つあり得ようはずなど無いではありませんかi
もう、選択の余地無く、この知られざる、知られている我を受け入れるしかありません。
悟りなどと言えば、そうなる人と、そうならない人が居るかもしれません。
だけど...よーく考え、味わって見て下さい。
"私、本当の私を知らないんです" 何てことすごーくオカシク無いですか? だったら何が、何で生きてんだ?
真我の実現は、当たり前のように万人に定められた道なのです。



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自然に書かされたこと

2019-04-18 12:26:10 | 覚醒
あなたは悟りたいと思いますか?
精神的目覚め、エンライトメントに与りたいですか?
私は、こうしてブログを書いているうち、どうでもよくなってしまいました。
といっても、"そんなの無くてもいい"、と言っている訳じゃありません。
何度も言っているようにそれは、"神的なものと共にある"ことから切り離されないことだからです。
ですから、そのことが無ければ、全くどうでもいいということです。
もっと言えば、そのことを蔑ろにしたならば、私の"重度の病"は永遠に克服出来ないことになっていたでしょう。
進歩した、霊的に進化した人間でありたい自分、より高い悟りの境地にありたい自分...この優越意識という病を克服出来なかったでしょう。否、まだ克服出来たなどとは言えません。ただ、そのガンジガラメ状態から離れられる突破口は見い出している、ということです。
このブログを始めた当初は、とにかくその口を求めてもがいていたものです。
"ぶっ飛んだ体験すりゃ、いいってもんじゃないですよi"...何てことを言ってみたりもします。
しかし、そこには"一時の体験に酔いしれるのは、泡沫みたいなもので、もっと高い、深い境地てーのは、いつも悟った状態にあることなんですよ~"と言いたい自分が見え隠れしている...そうなってるであろう自分を演じようとしていたのです。
そうですね、ちょっとした非二元カブレだったのです。
"そこでは神とか聖霊とかガイダンスなど、自分以外の何かを想定するのは、二元的見地なので..."なーんてこと考えたりしてバッカじゃなかろーかi
もし、私が度々言い表している、神的なもの、現臨というものにない悟り、覚醒というもの、そこから切り離され、一人歩きしたそうしたものは、一体どういうものになるでしょうか?
修行系の人には、そういう傾向が見受けられるものですが...。
そういう道を究めたことなど無いので、何とも言えませんが、その片鱗らしきものは経験しています。
"すべてが虚無のうちに消え去って行く..."これはそう感じている、意識している自分ごとが消えそうになる、という感じを言っているのです。
そこには如何なる幸福も、愛も、平安もありません。そんなものを求めている人間の気が知れませんi
それでも、あなたは悟りたいと思いますか?
いや、多くの人は、"悟ってエラくなりたい"ムキは別として、悟りというものに、幸福、愛、平安というものを求めているのではありませんか? それは人間としてこの世に生まれたものとして極めて当たり前な、自然な要求です。
諸々の教説のことは置いといて、背伸びや偽りのない自分自身に聞いてみて下さい。
それらは、ここに生きている、ということ自体のうちにある...それはそう在らしめているもの抜きにしてはあり得ない...そして、そのものから離れた悟りというものは無い...そのものにあるということなのであって、優劣というものは本来無い...
こうしたことは、この自然(じねん)に赴くということを意識してみれば自ずと示されることでしょう。
究極の悟りの道のようなことは、頭で思い描いているだけで、"ここには示されていない"のです。(示されることは私の病のことばかり...)
これはこうして自然に筆が、否、指が赴くままに書かされたことで気付かされたことです。
もう、書くことが祈りみたいに感じている次第なのです。


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自分の道を見極める

2019-04-16 12:11:34 | 求道、探究
度々言っているように私は、ほとんど特定の瞑想法とかメソッドなどに依拠してこなかったのです。
そういうものを覚えようという気すら起きませんでした。
だからと言って、それらを頭から否定するつもりはありません。
否定しているようなことを書いていても、それはあくまで自分の限られた経験に基づいて言っていることなので、すべての人に当てはまるとは限らないのです。
例えば、精神的目覚めとか神的なものと一つになるようなことがあったとして、それはその瞑想法、メソッド自体に依るのではなく、意識が何かの契機にそっちに向かわされ、つながったことや、向こうからのハタラキかけに依るのではないか、と言ったりするのは、そういうことなのです。
又、寡聞にしてあまりそういう方法自体に因ってそうなった、という話を聞かないということもあります。
しかしながら、中には然るべき方法に則って、そういうことに導かれた人も居るかも分かりません。これは私がそういう道を歩んでこなかったから分からないことなのです。
ただ、どういう道を歩もうと、根本的には自分を超えたものの成さしむるものである、という感じは捨て切ることは出来ませんが...
そして当然のことながら、世には自力修行というか、瞑想法などに則って歩むことに赴く者も居るのです。
これは縁に因ると言ったらそれまででしょうが、この自分が何に赴いているのか、ということを知ることは極めて重要なことと言わねばなりません。
こんな当たり前のことが、案外蔑ろにされているのがしばしば見受けられるのです。
先の例のことは、やる人はやるだろうし、やらない人はやらないだろう、というだけのことです。そこに"こうでなければ、そうならないi"ということは多分無いでしょう。
付け加えれば、"何もしなくてもいい"、もしくは"何も無くてもいい"ということも多分無いでしょう。意識が向かう、赴く何かはあるのです。それが縁というものか...
人間は自然に赴かないことには、どうしたって赴かないもの...そうしてるってことは、極めて不自然なことです。
これほど人生において無駄なこと、難行苦行というものはありません。苦行に自然に赴く人はさぞかし、それも楽行ともなろう...そこには苦しみの向こうにあるものに意識が向いているのでしょう。
そして、自分にホントにその気も無いのに、同じところをグルグル回り続けているヒマ人も居るものです。
そっちに赴かない、ということは端的に"自分に向いていない"ということです。それで意識がそっちに向く訳がありません。
こういう事情も汲まず、宗教、スピ界隈には"こうすれば必ず悟ることが出来ます、悩みが解決されます"というような、そそる言葉が何と溢れていることでしょう。
その道がホントに自分に向いているのか見極めるのは簡単なことです。
自分の生の気持ちに誤魔化無しに向き合えばいいのです。
悟ることにしても、ただ、悟りたいだけなのか、悟ってススんだ人間と認められたいだけなのか、それともある名状し難く惹き付けられるものがあるのか、どうか...本当に自分にその気があるのか、どうか...本当にその気があれば、自ずと意識が向けられます。あなたはもうそっちに惹き付けられているハズです。
理屈でなしに...

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個己と自由

2019-04-14 10:54:42 | 雑感
「自由は絶対個己の世界にのみその真義を見出だし得るのである」(鈴木大拙)

私は現代のこの日本に生を享けたことに、本当に、ホントーに感謝を覚えずにおれません。
戦前、戦中の軍国主義の下であったら...北朝など思想統制下の国であったらなどと想像すると...いや想像することすら出来ない、許されないかもしれないのです。
こうして好き勝手なことを書いていられるなど...全く"日本ハ神国ナリ"と思えてきそうじゃありませんか?
こういうことは取りも直さず、私という個、自己というものが与えられているからということに尽きるでありましょう。
自己があるということは、自ずと、自らに因っている、自由があることに他なりません。
これを考えるに、今の悟り系スピなどで軽々しく"個というものは無いんですよi"、なんて宣うことなどバチ当たりにも程があるとは思えてきませんか?
そういうことも、そう感じる、そう言える個己あってのものであるハズなのです。
"個己がない、全体しかない"ということは、全体的なものになされるがままになる、ということにつながってしまうのですよ。
全く自由の無い世界など想像出来るでしょうか?
こう言ったからといって、私にもこういう教説が生まれた背景というものは分かっているつもりです。
何しろ私は戦後の生まれだからです。戦争を知らない世代なのですから...
世に個人主義なんて言葉がありますが、そんなものが本当に有るのかどうかはともかく、主我意識というものが当たり前のように浸透している時代に生きてきたのです。
個己が与えられていることは、自由であるということを言いました。しかし、純粋な意味での自己、個己と主我意識、エゴというものは違います。主我に囚われていることは、もうその言葉通り、自由では無いということです。
しかし...この主我の支配する世界にあっては、自ら不自由に陥るという、自由が与えられているのですi
現代的意味で、この様態を端的に表しているものは、引きこもり、うつ病などでしょう。
全体主義社会では、そういうことになる自由すらロクに与えられないのではないですか?
"強制労働か、さもなければ永久に寝ていろi"という発令があるかもしれないのです。
悟り系スピが執拗に"個はない"などと説き伏せているのは、それだけ我々は主我意識の呪縛に苦しめられてきた、ということを物語っているのでしょう。
主我を通り越して個己そのものにまで言い及んでしまうのは、それだけ事態は深刻なのかも分かりません。
しかし、これが無くなればすべて無くなる...永遠の虚無のみです。
"個はない、全体しかない"訳などありません。個がなければ、全体(と言わんよりは、普遍なるもの)もあるハズなどないのです。
これは、我々は本当の、本来の個己というものがまだ明らかにされていなかったということでしょう。
それが無ければ、何一つ明らかにはされないでしょう。
しかし、何人でも、春の陽光を浴びながら、その一端は感じられてくるに違いないi
"私がここに生きている、生かされているのは、何て自由なんだi"

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忘れられた思想家.出水日出男③

2019-04-12 04:59:57 | 創作
先に触れたように出水日出男は、国内での活動が困難だった理由もありましたが、元々"大道"を世界に宣べ伝えようという志が強かったのか、海外に出向くことが多かったのです。「この大道は、より普遍世界の中にあって、受容され、根付かなければなければ意味は無い」という言葉も残しているくらいです。
大戦直前、フランスで出された「ある有閑人の旅日記」という一書は、その諸国行脚、そこで出会った様々な宗教家、思想家との交流の模様を記したものです。
(尚、出水日出男の言葉の引用に現代式と旧式の文体とがあるのは、彼の書物が軍国主義の強かった頃出され、残っている原本に拠るものと、同書のように国内出版が禁じられていたので、フランスで出されたものを戦後翻訳された❬訳者は、飯別志太郎❭ものとがあるためです)
大正時代後期は、"諸宗教の一致"というヴィジョンの実現に力を注いでいた頃で、中国の道院紅卍字会やイランのバハイ教、あるいは神智学協会といった、当時台頭していた海外の新宗教を訪れ、交流を深めていました。
又、イスラエルではさるユダヤ敬虔派(ハシディズム)のラビと接見しており、「東洋と西洋の精神的和合には日出づる国(日本)と日入る国(イスラエル)との和合が必要なのではあるまいか」と記していますが、国内では陰謀論と絡めた反ユダヤの論議が高まっていた中でもあり、益々国家から警戒されたようです。
この大戦前頃からは、ずっとフランスに拠点を移して、幾つかの宗教、哲学のサークルなどを通じて例えば...アンリ.ベルクソン、マルティン.ブーバー、ジャック.マリタン(フランスの哲学者。新トマス主義を称えた)&ライサ.マリタン(前者夫人。カソリックの神秘思想家)ヘルマン.カイザーリング伯爵(ドイツの宗教哲学者、ヨガ、禅などの東洋思想を西欧に紹介した。主著「ある哲学者の旅日記」)などの有名、無名のその界隈の人たちと交流を重ねて行きましたが、特に印象が深かった出会いは、ロシアから亡命して、同じようにフランスに居住していたニコライ.ベルジャーエフとのものだったようです。
晩年一時帰国した折りにも記者に「ある哲学の会合で初めて会ったが、当初は私を快く思っていなかったようだったよ。"東洋の異教徒めが、何しに来たi"というような目で見ていたように思う。しかし、私がスピーチを始めると、見る間に表情が変わり、その最後には向こうから握手を求めてきた。"我々は精神の内奥で、普遍調和(ソボールノスチ)を分かち合うことが出来ますねi"と言ってくれたよ。我々は非常に言葉を超えた霊的感応に与る機会を得たものだった」と述懐しておりました。
さらにこう結んでいます。「人間は誰しもその内に神とつながる交点を有している。どうして諸人はこの内なる聖所に帰らずに、異邦の神にばかり群がりたがるのだろうか? あなたたちには、その聖所から正神が現れ出ようとしている声が聞こえないだろうか? 宗教、思想の違いを超えて、一人一人がそのご意志に聞くことが出来れば、幻想でない本当の神の国が実現するのだ」
彼はついに故郷に帰ることなく、仏国の地で客死しました。
しかし、本当の故郷は別の世界にあったようです。

出水日出男という思想家をご存知でしょうか? ご存知のはずはありませんね。実在しない人物だからです。
もし、出口王仁三郎師がある面で反目しあったりなど、微妙な関係にあったインテリ層の中から登場したら...と仮定して映る像をメインに、同時代の国学者筧克彦博士(主著「神ながらの道」人の内奥には共同体的つながりを有すると説いた)、ベルジャーエフ(上に列記した人物と親交があった)などをモデルにして作り上げてみたのです。
私が思い描いている、このような日本人が20世紀の精神、霊性の発現者として存在していたらなあ、という一種の知的遊戯を表してみたまでです。
そして書いているうち、何か表面的な20世紀の歴史の、もっと底のほうで動いている歴史の裏側のようなものを感じてきました。そこには戦前も戦後も無く、人間の作った体制によって生まれたり、消えたりするものでは無いはずです。時代は変わり、それがより顕になってくるのを覚えています。(終わり)
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