人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

恩寵と虚無

2020-06-21 10:14:26 | スピリチュアル
「信仰の光に照らされていた魂が、神様に絶望して虚無を選んでしまったら、造物主のどんな恩寵も受けることができないようになってしまうんだ。それに、もし虚無がありうるとするなら、それは自殺のために作り出されたんだ。...ところが突然の啓示によってお前が救われたことが分かった。お前は知力を失ったからだ」(シャルル.ノディエー19世紀に活躍した、主に幻想文学で知られるフランスの小説家ー「リディ、または復活」牧神社刊.ノディエ選集第3巻所収)

恩寵。それに与るということは、幸福に与ることに等しいことでしょう。
それは神の寵児のような特別な人間に与えられるものでなく、人間に本来から与えられたものでしょう。
それの無い人生など考えられません。それは全くもって私自身のことです。
どうして多くの人はこのことに気付かないのでしょうか?...驚いたことに、宗教やスピなどに関わっている人間ですら、このことをスルーしてしまう者も居るのです。
そして、どうやったら悟りを開けるとか、救われるとかいったことが問題になる...どうやるも、こうやるも恩寵無くしてそうなりようが無いではありませんか?
こちら側が方法とかを考えて、自分の努力とかで目指すものを獲得したり、達成したり出来ると思うらしい。だから気付くことが出来ないのでしょう。
思われた自分が、思われたままで生きてゆけるのなら、恩寵など必要ないのでしょう。
思われた自分が、悟りの道に大きく立ち塞がる、その自分の思いというものを超えよう、無くそうと、とどのつまり自分を無くそうとするならば、おそらく虚無に至るでしょう。
しかし、大概はどこかで"思いが自然と超えられてしまう"ことになって、自分の限界というものを思い知らされ、その恩寵の消息に気付かされるのが普通だと思います。
虚無の道は自らの思いによって赴かされるのでしょう。しかし、その思いの根底には、人生への絶望という思いが強くあるのかもしれません。
又、たとえ一端は恩寵によって思いを超えられたとしても、"戻ってきた"時に、だんだんとその自死に等しい思いへと自らを駆り立ててしまうこともあるかもしれません。人間は思いによって死の道を選ぶことが出来るのです。
確かに、生きることはツライ、苦しいことでいっぱいです。
でも...だからこそなのでしょう。自然とか至るところに、自分では思いもしなかったような奇跡のような摂理がいっぱいあるi
突然風が吹いたり、風向きが変わっただけで、思いの向きが変わってしまうことなどが思いがけないことなのですi
生きるということは、自分の思いだけで生きられないということが、ごくごく自然に感じられます。
人間は誰しもが寵児に違いないでしょう。
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あなたが幸せならば...

2020-06-20 10:08:13 | 求道、探究
「大切なことは君がどうかいだよ。君がどうなのかということさ。君が生き生きとしているか、君がOKなのか...」(ダンテスダイジ「雨宮第慈講話録2.君がどうかい」SCL刊)

所謂狂信者、盲信者と言われている人たちというのは、ほとんどその自分が信じ込んでいることを他にアッピールしたい欲求を持っているものです。
実際に伝えるか、どうかはともかく、彼らには伝えるべき他者(他者集団)というものが常に想定されているのです。
つまり、意識は常に外向きになっており、だからこそ、そういう心的傾向が表わされ、他者からは「ああ、あの人完全にハマっちゃってるわ...」と認識出来るのでしょう。
他を巻き込もうと、同じような信者を沢山引き入れ、作ろうとします。カルト宗教などが増強される過程には、このような集団におもねられた思念が大きな役割を持っているのです。
有り体に言えば、彼らは自分の世界で、自分自身から直接満たされるということが出来ないのです。
自分が正しいということにやたらと囚われていて、他に認めてもらわずに居られない...ということは、本当には自分は正しいとは思っていないということでしょう。
自分が満たされていないのだから...自分を受け入れていないのだから当然でしょう。
その"信的"エネルギーは、信じる特定の教師、教えにばかり向けられ、自身には向けられることがありません。そしてその正しい信仰を不特定多数の人間に及ぼそうとせずに居られないのです。
"そこに愛はあるのか?...平安は?、幸福は?"
もし、あるというのなら、赤の他人の出る幕などありません。
私は特定の教師、教えを信じ奉ること自体が悪いと言っているんじゃありません。本当にそれであなたが幸福に感じているのなら、それでいいじゃないかi...
"私はペットの猫を神様のように崇拝してる"って人が居ても、まあ、聞いたらおかしいことではあるけれども(気持ちは分かる)、その人がハッピーなら文句なんか言いませんよi いや、言ってはいけないんだ、他人の神聖な領域を犯すようなことはi
本当に幸福ならば...それはあなたの中から来るものに他ならないのではありませんか?
そのことにあなたは、あなたの正しさなんかを求める必要があるでしょうか?
沢山の人にそれを認めてもらう必要があるでしょうか?
認めようが、認めまいが人が幸福にあって、生き生きとしている様に接すると、何でか分からないが、こっちも生き生きとしてきます。
彼らは自覚してようが、いまいがそうなっている自分を受け入れているのでしょう。
それに引き換え、人の自由な感性というものをしばしば踏みにじり、一人一人の内側に向き合おうとせずに集団的思念におもねってばかりの信者たち...そこには何が強固に信じられていても、根底には不信、迷いが感じられてなりません。
そういうのは"独りカルト"でいいじゃないかと思うのですが、そうならないんならせめて他所でやってほしいですi
ここは"私がどうかい、君がどうかい"、というノリで行きたいですから...
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人生の試練と学び

2020-06-19 09:58:00 | 求道、探究
世の中は生きづらい...
確かに。問題だらけですもんね。
でも一番の問題は、その問題を自分が作り出していたりすることにあるんじゃないでしょうか?
"イヤだ、ツライ、シンドイ..だけど、ここはガマン、耐えるっきゃないi、ガンバローi"
そりゃあ、人生にはやりたくないけど、ガマンしてガンバラなきゃならないこともあるでしょう。仕方ないからやってるってのもあるでしょうが...
"これは人生の試練なんだ、ここを通して学ばされてるんだ..."、なーんてこと思ったりして...でなきゃ、ただの惰性、習慣だったりして...
そんでもって...ストレス抱えて、心身とも疲れてきて、そんなこんなの繰り返し...。
自分自身のことを考えてみても、どうしてあの時、わざわざツライ道を選んだりしたのかよく分からないことがあるのです。
何だか、そうしなきゃいけないような気分になってきて...きっとそれは"世の中という神"の声なんでしょう。
しかし、もしそこに"そっちに赴けば幸福がある"、ということが示されていても、自分が勝手に試練とか学びとか思っている道を通らなければならないでしょうか?
幸福であること、愛、平安と共にあること...そういうものは一時の感情のように、あるいは何か抽象的な観念のように思っていたら...それは表われては消えるものとしか感じないでしょう。
だとしたら、それは本当に幸福、愛、平安の内にあるとは言えません。そういう思いの内にあるということです。
もし、本当にそのものと共にあるのなら選択の余地などありません。自ずとそっちに赴かされるだろうから...
それは一時の感情の発出でもなければ、抽象的なものでもありません。具体的に感じられるものなのです。
"自ずと"ということは、自然から、本来性からのものということ...それは自分が愛している人やモノを通して、それらを媒体して感じられるだけでなく、自分に本来備えられているものなのです。
そう考えると、どうして人間は問題ばかり抱えていて、幸福になれないのかが不思議でしょうがありません。
宗教などで神を信じているのに、一向に幸福になれず、ツラく、シンドイ思いを抱えてしまう人も居るでしょう。
本当に神(的なもの)に意識が向けられて、そうなってると言うのは、どっかおかしいことです。
自分の、他所からもたらされた信仰、信念、観念、習慣的思い...それが本当に自分自身に直結した神(的なもの)を見えなくさせているのでしょう。
私がつい神のことを書いてしまうのは、それが思いを超えたものであり、その導きを通して、このような気付きを与えられたからに他ならないからです。
それもツライ、シンドイ思いを通らされたことあってのものには違いないでしょうけど...そんな時でも、その思いの向こうに幸福がある、ということは感じられていたのです。ずっとそのものが表層の奥に息づいていたということが...このことに本当に気付けるか、どうかということこそ本当の人生の試練と学びだと思います。
まあ、そう感じるのも歳をとったということなのでしょう。
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絵に書いたようなスピ体験

2020-06-18 11:48:18 | 回想
10数年前のこと、あるスピ系のイベント会場でのことでした。
参加者の中に何やらほっぺたからアゴにかけて、ミカンくらいの大きさの出来モノを抱えている人が居ました。
そこで、どっちが言い出したのか、知り合いの自称気功師のオバサンとその友人のお姉ちゃんが手をかざして、その大きなオデキ?を癒し始めたのです。
私は興味津々で、その模様を見ていたのですが、どうもイヤな予感がしてなりません。
そんなところで、何を思ったのか、そのお姉ちゃんたら突然「あなたも見てないでこっち来て一緒にかざしなさいよi」と言って来るではありませんかi
私は学生時代、手かざしによる癒しを売り物にしていた新宗教に入っていたものの、そういうヒーリングについてはほとんど素人と言っていいのです。
「あー、オレ? な、何で?」と私は気が進まなかったのですが、見かけによらず?勝ち気そうなこの姉ちゃんときたら「あなたは何のためにスピを学んでいるのよi それでも男なのi 」と強引に私を引っ張りこもうとしてきます。
"んじゃあ、仕方がない"...私は、何か良からぬことが起きやしないかと、胸騒ぎがしていたので、ある重要なルーティンをした上で、その3人協同ヒーリングに加わることにしたのです。
すると...みるみるうちにその出来モノは小さくなって行き、ものの30分くらいですっかり引いてしまったではありませんかi
"あー、良かった、良かった"...その場は何事も無く、イベントも無事に終了したのでした。
ところが...一週間くらい経ち、所も別の集りの時、彼女と会ったのですが、どうも様子がヘンなのです。
顔半分を常に隠している..."こりゃあ、もしや?"...私の悪い予感が当たったのですi
「どうも、あれからほっぺたの辺りに何かが出来て、どんどん膨らんでくるのi」だって..."ぷ、ぷぷっi"、あー、笑っちゃあいけないが、やっぱ、おかしいi...よく見りゃ、可愛い顔してんのに、可愛いそうに...
「3人でやってたのに、どうしてアタシだけがこんな目に...」と、言ったって、後の祭りです。しかし、何という分かりやすい因果なのでしょう。
私はこんなことになるのを危惧してたからある事を怠らなかったのですi ...その側に居た自称気功師のオバサンはと言うと...
「勿論、私は私の先生に言われているので、やりましたわよi」そうだろう、そうだろう...
このある重要なルーティンとは祈りのことです。私はヒーリングについては素人ですが、そんなのは常識です。見えない世界に関わることは絶対にナメてはいけませんi
彼女はその辺りをどうもイイカゲンにしてたようで、加えて私には彼女から如何にも、"私が..."、"私の力で..."といった、心的態度が伺われたことが、イヤな予感を一層もたげさせていたのでした。
その後、その自称気功師の先生という、大御所スピリチュアル.ヒーラーがやって来て、その事情を聞くや、「あんたら、なにやってんだi」と大目玉i
"お、オレも? オレは知らねえよおi"と、言いたいところでしたが、神妙にお説教を聞いていました。彼女の天罰の印?は、その先生だったか、"自分らの不始末は自分らでやれi"ということだったか、忘れましたが、それもみるみる治ってしまったのです。
ともあれ、こういう絵に書いたような(成功したのか、失敗したのか)奇しき体験に接したのは後にも先にもありません。そのお姉ちゃんにも生涯に残る教訓になったことでしょう。
このエピソードに一体どういう原理、因果が働いたのか、特にその心霊的な要因についてはよく分かりませんし、さして興味もありません。
ただ、ヒーリングに関することばかりでなく、思われた自分が主導で行うものでなく、真の見えない癒し主がおり、こちらは単なるパイプにすぎないということ、見えない世界と見える世界とには、一定の秩序、則というものが巌として存在するということ、そこで何かを直感的に感じるということ、そこに見えない導きがある、ということを知らしめた、ということで忘れられない体験ではありました。
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お上が見そなわす国

2020-06-15 10:13:14 | 日本的霊性
アメリカでは今、大規模の暴動が起きてますが、何とシアトルの辺りでは自治区が出来るとかi...もっと小さい国だったらクーデターでも起きかねない勢いです。
コロナ自粛期間中、小さな暴動騒ぎも聞かれなかった日本では一寸考えられません。
この国でクーデター、革命でも起きたら日本が日本でなくなってしまうことでしょう。
江戸から明治に変わったことは、歴史的に大きな政変でしたが、それは同じ日本の中のこと...これは言うまでもなくこの国には皇統というものが存在しているからこそなのです。
つまり、日本は"お上"が見そなわす国なのですi
天皇が統治してる訳じゃないのに、国民の意識には何となく刷り込まれているのでしょう。何か途方もないものに見られているんじゃないかと...
現政権でも、なんだかんだ言われてても、現実には独裁政治などおかしなことは実現しないのです。
ただ、不思議なのは本当の意味での主権というものが、どこにあるのかよく分からないことです。国民だとか言ったって、実態はどうなのか、そんなもん掴みどころなどありません。
あれは、大日本帝国みたいなことにならないように、ボカしてそういうことにしたのでしょう。
そう、日本の歴史の中で、その"国ぶり"が大きく歪められたのは、政府が天皇を神格化し、政治利用したその時期だったのです。
それについて戦後間もなく、一部からは"現人神"のように目されていた、出口王仁三郎師は「本当の存在を忘れ、自分らに都合のよい神社を偶像化して、国民に無理に崇拝させたことが日本を誤らせた...」とボカして発言し、自らは「余はただの人間である。神様呼ばわりは迷惑である...」と言って、天皇に先立ちさっさと人間宣言をしていたのでした。
支配欲に駆られた人間が神になろうとしたことは、我が国でも外国でも多く見られましたが、歴代の天皇は、真の見えざる主体、見えざるお上がしろしめし、見そなわす、ということを自覚されていたのでしょう。
このことは、実は人間一人一人の内なる有り様のことを示されているのではないか?
この意味で天皇は正しく国民の象徴なのかもしれません。
象徴というのは、飾られ置かれているだけとは限りません。それが象徴している実相あっての象徴なのです。
天皇は政治には介入しないことになっていますが、(本当はそれが本来の役割かと思うのですが)これからは緊急時にはお上も"モノを言う"こともあるかもしれません。
それは御自らか、(何か言いそうな)親王様か、あるいは、何かの総意みたいなものを通してか?
いや、言葉を通してのものとも限らないでしょう。
形なきもの、沈黙ほどモノを言うことはないかもしれません。
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