人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ボルボックスと我が主

2020-12-13 10:31:29 | スピリチュアル
ボルボックスというプランクトンの仲間の生物をご存じでしょうか?
沼などで、肉眼でも見えるそうなのですが、球体をしており、それには無数の体細胞が入れ込んでおり、その一つ一つが一個のボルボックスと相似を成しているという...つまりボルボックスは一個でありながら、一つの有機体のような生物なのです。
というより、こういうものはすべての生物の微体構造について言える訳ですが、そこに分かりやすいフラクタル構造を見ることが出来るでしょう。
各々の体細胞は、ゼラチン質のもので結ばれておりながら、その一つ一つに細胞核があります。ということは、それは一全体を構成する部分のようでありながらも、独立した単体という面もあるとも言えるのです。
一にして全てである有機体...私が初めて"人生の裏側"に足を踏み入れた時に垣間見たものは、イメージを借りて言えば、こういうものだったのです。(その真っ只中にあった時には到底、このように、見てきたような説明的な表現は不可能だったのですが...)
"私は、一個体としてのみで生きているのでは無かった...
私を私たらしめているものは、思われた私を超えた全一なる主体であった...
その全一なる主は、さらに又無限に織り成す有機的つながりに開かれている...
我が主とのつながりにあって永遠なるもの、普遍なるものが開かれる..."
一つの体細胞のような表れがこの個的な私だとすれば、もっとその私性の根本にあるものは、その全一なるボルボックスの個体のようなものに求められるのかもしれません。
永遠とか無限というものは、個的な限定されたものなしでは、それを認識、実感することが出来ません。
又、どうして他の誰でもない、代えることの出来ない、この私がここに生き、生かされているのか? それは普遍性とつながっているからこそ、なのではないか?
キリスト.イエスが「我は真のブドウの木、汝らはその枝なり」(ヨハネ伝)と述べていたのも、こういう角度のものだったのでしょう。(ちなみに私はブドウの木というよりも、一房のブドウとブドウの一粒一粒の関係というものを強くイメージされたのですが...)
そこに、私のすべての生に直接つながる、"我が主"なるものを想起させてやまないものが感じられるのです。
それは、単なる個体に限定されず、全体にも解消されない、全一なるものとしか言いようのないものなのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真我と縁起

2020-12-12 10:01:56 | 仏教関連
私は5年くらい前まで、原始仏典などを紐解くまで、仏教、取り分け仏陀の教えというものにある先入観を持っていました。
例えば、悟りというものは、人の内なる仏性を表すもので、それを備えているものこそ真我というものだとか...
ところが、仏陀自身は、それまでインドで広く、伝統的に伝えられてきたその真我ーアートマンと言われるものについて、どちらかというと否定的なことを述べていたのです。
仏陀の教えの根本にあるのは"縁起"というもので、あらゆるものは縁というものでつながっており、この一コの自分というもの、それだけで成り立っているのではない、だから真我という独立した、特別な存在というものは無い、ということになるのです。
勿論、この肉体の奥に霊体だとか幽体だとかがあり、肉体は死んで滅んでもそれらは生き続ける、というようなことは何も言っていないのです。
ということは、"輪廻転生の教えは仏教の十八番だi"、などとこれ又先入観を持っていたことについても否定的だった...。
といって、私はここで本当の仏陀の教えについて講釈するつもりはありません。何が真実なのかについても、私に分かろうはずなどないではありませんか?
ここでは、ただ私自身が感じたままを少しく、ざっくりと述べてみたいと思うのです。(それが真実か妄言かは読者にゆだねられよう...)
で、強く感じたことは、全く"如是我聞"、仏陀の仰せのとおりに感じたのでした。
そう、一コの自分というものは無い、だけど非二元論者が説く、全体しかない、という風には感じられません。
関係性というか、フラクタルな有機体の無限のつながりが感じられる...私という個人はいない、ということは、"それから切り離された私はいない"、というニュアンスなのです。(そして前にも書いたように、私は肉体と別の"体"というものの存在を感じたことはありません)
これは、こういう空間的なことにも、時間的なことについても言えることで、永遠の命のつながりというか、この私個人の命が永遠のものだったり、輪廻するとかというよりも、それに連なっていることにおいて、そのことを強く感じられるのです。
これは単なる血統というものにとどまらず、より強くは"霊統"ともいうべき縁のことを覚えさせられたのですが、そもそもはそれなくしてはこういうことに触れることは出来ないであろうものなのです。
以上の通りで、今やスピ界では当たり前のように語られる、真我なんてものは無いのだi
...なーんてことどうして決めつけられようか、ってんですi
"真我とは?"、と聞かれてもこのような次第で答えられません。その実体など見たこともありません。
だけど、そういうものは否定しようもなく、感じられたのも確かなことなのです。それは一コの私だけでは存在しない、という幻想から覚めさせられたところからくるのかもしれません。
言い換えると、本当の私とは、"つながりにおいてある私"だった、ということになるでしょうか?
でも、私はこのことを"唯一絶対の真理だ!"、などと、定言、公言しようものなら、その大いなるつながりから切り離されてしまうのは、自明のことでしょう。
仏陀が真我や輪廻転生などについて、否定的だったことの真意はここにこそ求められるのではないでしょうか?
其々が確証、自内証出来ないこと、定見、偏見に結び付くことには否定的だった、ということです。
そういうことから自由でなければ、悟りの道は開かれない、いやそういうものから解かれることを抜きに、そもそも解脱というものは無いのでしょう...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたである私しかいない

2020-12-10 08:56:47 | 詩的文章
ここは夢か現つか...
現実だと思っていたものは夢だったのか?
真実だと思っていたものは幻想だったのか?
疑い? 否定?
かく在らしめられているだけ...
それを受け入れるだけ...
数多の教えも信仰もメソッドも
ここでは何の役にも立たないi
何も考えられない、信じられないi
何も掴めない、行うことが出来ないi
何も身につけられないi
ここにあるものはすべて
元々あったもの...
一体、何を探し求めて来たのだろうか?
信じる神も存在しないi
私と別の神など...
私と別のものは何も無いi
私は...
一体、誰なのか?
見ている? 見られている?
呼んでいる? 呼ばれている?
あなたは...私?
ここには...
あなたである私しかいないi

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見えない宝を探して

2020-12-08 12:12:24 | 雑感
昔から文学や映画などでは、所謂"宝探し"ものが人気を集めてきました。
誰しも心のどこかに、それが何かは分からないけど、それを求めてやまない宝物というものが思い描かれているのではないでしょうか?
"それは、とてもたどり着くのが困難な、どっかの秘密の場所に隠されているらしい...
それは、持つべき人に与えられるものであって、そうでない人が奪取しようとすると、良からぬことが待ち受けているらしい...
それは、いざこの手に掴んでみたら、ただ宝物だと勝手に思っていただけで、どおってことない、ただの石ころだった...いいや、本当の宝物というのは"至宝"でなければならないらしい...
それは、何か見えないものの象徴だったりするらしい...いや、それを求めての冒険が人生というものの象徴なのだろうか?...だから性懲りもなく続けている宝探しの旅..."

宝物というのは、モノなのでしょうか?...見えない何かの象徴だとしても、オブジェというか、何か掴み所の無い抽象的なものを型どった、"物体"なのでしょうか?
私には、宝物というヒビキから、その見えないモノ自体から、もっと具体的な何かのことが思い浮かばされるのです。
"見えないモノだけど、具体的なもの"というのは、一般通念から言えば矛盾しているのかもしれません。
だけど、誰しもが見えないけれども、具体的なものを日常的に感じて生きているのではないでしょうか?
そう、それは極めて感覚的なことなのです。例えば愛する人を思い描いたら、"胸きゅん"になるというのがそれです。
全心身が何かハートの辺りに凝縮される感じ...これは、私が"内的感覚"と呼んでいるものと関わっていると思われるのですが、それが浅い場合は、単なる肉体感覚か、精神の心的作用か、まあ感情の発露ということになるのでしょうが、深まればそのどちらでもない、又それらを超えたものが開かれてゆく感じになってしまうものなのです。
愛というものは、いくら抽象的に考えても分かるものではありません。
又世的には、何が善で、何が悪だ、とされているものがあります。
"悪とされるものを規制するのは、法だという...法に触れなければ何をしてもいいらしい...道徳倫理など、外側から律されるものは今や根本的に破綻しているのではないか?"...
我々は内側から本来から、"善というものを感じる"ことが出来ないのでしょうか?
少なくとも"幸福であることが善である"、とも感じられないのでしょうか?...いや、幸福であることもどういうことか、感じられないのでしょうか?...
こういう感覚のことは、私自身がつい数年前まで、子供の頃からずっと感じられない、分からないことだったのですi
"分からないi...だけど、きっとどっかに有るに違いないi...そうでなければ世の中のことはすべてウソッパチi...そんで、何もかもがぜーんぶ吹っ飛んじゃってオシマイi"
私はこういうものをそうと知らずに探し求めて来たようなのですが(ということは、自覚されずとも、どっかでは感じていたのでしょう)、それが本当の至宝だったのか、どうかは分かりません。
少なくとも、"私はこれを手に入れたi"、などとは決して言えようはずなどありませんi 至上なるものには"これだi"、なんていうものは無いのですi
それに、そんなつもりでいたらすぐにでもお引き上げとなるでしょう。
誰にも手に入れることは出来ない...そして、誰もがそれに"与る"ことは出来るでしょう。胸に手を当てて感じてみれば...
それはどこまでも与えられる、与えられているものなのではないでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思いのクセとハッキリさせたいこと

2020-12-07 10:04:15 | 現臨、ハタラキ
人間には思いのクセというものがありますね。
これは其々の、ということじゃなくて、多くの人に共通したものなのでしょうが、例えば何か不調和な、怒りとかHなこととか、又そんなこんなで、誰かに何か言われたとかで、いつまでもクヨクヨしてたりしたら、"そういう思いは出してはイケナイ、変えないとならない..."とか思うんじゃないでしょうか?
そして一角、宗教、スピなどをかじっている人だったら、"思いというものは出たら消える"ってことを知っていて、実際にそういうことを体感してる訳でもないのに、"ああ、これで消えた、消えた、前世の業想念はこれで軽くなったんだi"、とか思おう、信じようとするんじゃないですか?
一体、前世の業のことなど誰が知り得ようか? 
しかし、思いが本当に消えたのかどうかはともかく、意識を神に向ければ(これは意識的になるということと"ほぼ"同じことであり、現臨にあるということと"ほぼ"同じでもあります)、思いの絡みから解かれる、離れられる、思いが消えたように感じる、これは具体的に、テキメンに感じることなのです。
これは、私自身がいつも"悪い"思いを出してたり、いつまでもクヨクヨしていたり、思念に囚われる人間だからこそ、テキメンに分かることなのです。
このことは、"ハッキリさせなければならないi"、と私がいつも意識していることです。
そうでないと、思いを超えるという、その"際"というものが曖昧なものになってしまうからです。
思いを超えた現臨にある、という事態のことが、思い描かれ、信じること、自分の信念だとかのことで誤魔化され、それに取って代わってしまってはならないのです。
五井先生が伝えていた、"思いは消えてゆく"ということをある種の観法にしたものをやり続けていることで、かえって苦悩を背負いこんでしまった、という話もよく聞くのですが、これはどっかでその行が思念に取り込まれてしまっていることに要因があると思われます。
思いを超えたものにあって、苦しくなるってことはあり得ないことなのです。
そこにある一つの方法、メソッドとして伝えることの難しさがあるのでしょう。
だからですね、私はここで、こういう独自の...って、独自もヘチマも、私には信仰もメソッドも無いんですってばi 私じゃなくて、すべてあの御方に帰されることばかりなのです。
世の中の人は思いのクセで、そういう風に捉えるのでしょうけど...このことはハッキリさせなければならないi
あのね、言うまでもないことですけど、この"方法無き方法"に従ったからといって、いつもいつも思いのガンジガラメから解放されるとは限らないし、現臨が臨むとも限らないのですよ。
そうならなければ、ならないでしょうがないことなのです。私の思いではどうしようもないことなのだから...
多くの人は思いのクセで、"こうすれば必ずこうなる"って、100%ウソの情報に飛びついちゃうものなのでしょうが、だから思いの堂々巡りを繰り返しているのでしょう?
私はもう、自分じゃどうしようもないから、ポカンと天を仰いでるっきゃ、ノウが無いんでしょう...。
すると、みるみる思いの雲が離れゆくではないかi
私がいつも書いていることは、こういう人間の思いのクセを突いていることが多いようなのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする