ボルボックスというプランクトンの仲間の生物をご存じでしょうか?
沼などで、肉眼でも見えるそうなのですが、球体をしており、それには無数の体細胞が入れ込んでおり、その一つ一つが一個のボルボックスと相似を成しているという...つまりボルボックスは一個でありながら、一つの有機体のような生物なのです。
というより、こういうものはすべての生物の微体構造について言える訳ですが、そこに分かりやすいフラクタル構造を見ることが出来るでしょう。
各々の体細胞は、ゼラチン質のもので結ばれておりながら、その一つ一つに細胞核があります。ということは、それは一全体を構成する部分のようでありながらも、独立した単体という面もあるとも言えるのです。
一にして全てである有機体...私が初めて"人生の裏側"に足を踏み入れた時に垣間見たものは、イメージを借りて言えば、こういうものだったのです。(その真っ只中にあった時には到底、このように、見てきたような説明的な表現は不可能だったのですが...)
"私は、一個体としてのみで生きているのでは無かった...
私を私たらしめているものは、思われた私を超えた全一なる主体であった...
その全一なる主は、さらに又無限に織り成す有機的つながりに開かれている...
我が主とのつながりにあって永遠なるもの、普遍なるものが開かれる..."
一つの体細胞のような表れがこの個的な私だとすれば、もっとその私性の根本にあるものは、その全一なるボルボックスの個体のようなものに求められるのかもしれません。
永遠とか無限というものは、個的な限定されたものなしでは、それを認識、実感することが出来ません。
又、どうして他の誰でもない、代えることの出来ない、この私がここに生き、生かされているのか? それは普遍性とつながっているからこそ、なのではないか?
キリスト.イエスが「我は真のブドウの木、汝らはその枝なり」(ヨハネ伝)と述べていたのも、こういう角度のものだったのでしょう。(ちなみに私はブドウの木というよりも、一房のブドウとブドウの一粒一粒の関係というものを強くイメージされたのですが...)
そこに、私のすべての生に直接つながる、"我が主"なるものを想起させてやまないものが感じられるのです。
それは、単なる個体に限定されず、全体にも解消されない、全一なるものとしか言いようのないものなのでしょう。
沼などで、肉眼でも見えるそうなのですが、球体をしており、それには無数の体細胞が入れ込んでおり、その一つ一つが一個のボルボックスと相似を成しているという...つまりボルボックスは一個でありながら、一つの有機体のような生物なのです。
というより、こういうものはすべての生物の微体構造について言える訳ですが、そこに分かりやすいフラクタル構造を見ることが出来るでしょう。
各々の体細胞は、ゼラチン質のもので結ばれておりながら、その一つ一つに細胞核があります。ということは、それは一全体を構成する部分のようでありながらも、独立した単体という面もあるとも言えるのです。
一にして全てである有機体...私が初めて"人生の裏側"に足を踏み入れた時に垣間見たものは、イメージを借りて言えば、こういうものだったのです。(その真っ只中にあった時には到底、このように、見てきたような説明的な表現は不可能だったのですが...)
"私は、一個体としてのみで生きているのでは無かった...
私を私たらしめているものは、思われた私を超えた全一なる主体であった...
その全一なる主は、さらに又無限に織り成す有機的つながりに開かれている...
我が主とのつながりにあって永遠なるもの、普遍なるものが開かれる..."
一つの体細胞のような表れがこの個的な私だとすれば、もっとその私性の根本にあるものは、その全一なるボルボックスの個体のようなものに求められるのかもしれません。
永遠とか無限というものは、個的な限定されたものなしでは、それを認識、実感することが出来ません。
又、どうして他の誰でもない、代えることの出来ない、この私がここに生き、生かされているのか? それは普遍性とつながっているからこそ、なのではないか?
キリスト.イエスが「我は真のブドウの木、汝らはその枝なり」(ヨハネ伝)と述べていたのも、こういう角度のものだったのでしょう。(ちなみに私はブドウの木というよりも、一房のブドウとブドウの一粒一粒の関係というものを強くイメージされたのですが...)
そこに、私のすべての生に直接つながる、"我が主"なるものを想起させてやまないものが感じられるのです。
それは、単なる個体に限定されず、全体にも解消されない、全一なるものとしか言いようのないものなのでしょう。